2015年12月24日木曜日

「道理の前で」フランツ・カフカ

フランツ・カフカの『道理の前で』(別題『掟の門前』)を作りました。
カフカは現代実存主義文学の先駆者といわれ『変身』や『審判』『城』など、人間存在の不条理を主題とする作品を書いた作家です。
『道理の前で』は文庫本にして3頁ほどの短かいものですが、読み手によってさまざまな解釈を生む奥の深い作品でもあります。

本の外箱にはマッチ箱を使いました。手間が省けて助かりましたが、箱から出したマッチ棒をどうしたものか思案にくれる毎日です。



2015年12月11日金曜日

貝原益軒の辞世、勝海舟の弔辞

昔の本に名文として紹介されているものを掲載します。貝原益軒の辞世文と勝海舟が亡友山岡鉄舟を吊うた辞です。いずれも無駄のないいい文章だと思います。そのほかに近松門左衛門の経歴文というのがあり、この三つはよくセットで載っています。これらは私にとって「あたりかまわず大声で読みたい日本語」でもあります。実際に人前で読んだことはありませんが…。



心曲=心に思うことのすべて
存順没寧=存に順い、没に安んずる
朝聞夕死=朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり
徳業=徳をたてる事業。善にすすむ所業
夙志=幼少・若年のころからの志


塵世=汚れた世の中。俗世間
至愚=非常におろかなこと

2015年11月30日月曜日

これは歌か?

難しいことは分かりません。本に書いてあるまま言うなら、これらは「無心所着体(むしんしょぢゃくたい)の歌」といわれ、「それぞれの句は連想によってつながってはいるが、全体としては意味をなさない歌のこと」だそうです。歌病(かへい)ともいわれました。
ちょっと面白かったので掲載します。
──戯れ歌ともいわれました。


2015年11月20日金曜日

次の本が出来るまで その13


字が上手な人がうらやましい。その人柄まで尊敬できそうな気がしてくる。反対にとびきりの美人が何とも情けない字を書いていると、見てはいけないものを見せられた気持になる。自分に限って言えば、もともと下手な字が年とともにさらに下手になるようで、とくに縦横の線がまっすぐ書けない。ゆっくり書けば震えるし、早く書けば殴り書きのようになる。
細い筆で美しい字が書けたら毎日でも誰かに手紙を書くと思う。いややはり面倒で誰にも書かないかもしれない。




2015年11月6日金曜日

陶淵明『挽歌詩三首』


以前に陶淵明の「五柳先生」を紹介しました。おなじ時期に「挽歌詩三首」という作品に興味を持ち、今になって作ろうと思い立ちました。

「挽歌」とはを挽く時に歌う歌のことです。本来なら亡くなった人を偲んで親しい人が歌うものですが、陶淵明はこの歌を自ら作りました。内容は「其一、納棺を歌う」「其二、葬送を歌う」「其三、埋葬を歌う」の三首で、遺体から抜けだした魂が葬儀の一部始終を見ているかのように書かれています。最後に埋葬が終った棺の中でこうつぶやきます。「死ぬことは、自分の体を自然に託してしまうことだから、さほど悲しむことではないのだよ」。

果たして私はこんなふうに死ねるのでしょうか。




2015年10月27日火曜日

志賀直哉氏の言葉より


人間は何でも知っている。
専門専門で、どれ程人間が進んでいるか、その程度はその専門以外の人間には到底分からない位に進んでいる。恐ろしい位である。
ところが人間全体の幸福という事に対してはこれ又驚くべく人間は何も知らない。
人間はだから全体的に少しも幸福にならず、益々不幸になりそうな予感が多分にする。



※そのとおりだと思う。

2015年10月22日木曜日

次の本ができるまで その12


酒屋の前にこんな看板があったらしい



酒代よこさんひとはかさねて無用

2015年10月15日木曜日

志賀直哉氏の言葉

偉れた人間の仕事──する事、いう事、書く事、何でもいいが、
それに触れるのは実に愉快なものだ。
自分にも同じものが何処かにある、それを目覚まされる。
精神がひきしまる。
こうしてはいられないと思う。
仕事に対する意思をはっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。
この快感は特別なものだ。
いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは
必ずそういう作用を人に起こす。


──まったくそのとおりだと思う。

2015年9月29日火曜日

シャルル・ルイ・フィリップ『老人の死』


シャルル・ルイ・フィリップの短編「老人の死」(小牧近江訳)を作りました。
フィリップは1874年生まれのフランスの作家です。35歳という若さで亡くなった彼は、生前パリの新聞「ル・マタン」に計49編のコント(短編小説)を書き、『小さな町で』と『朝のコント』の2冊の短篇集を出版しました。「老人の死」はその中の一篇で、邦訳は大正時代に出版されています。最近知ったのですが、短篇集『小さな町で』は2003年に山田稔さんの訳でみすず書房から出ていました。この本の書評で作家の川上弘美さんが「老人の死」について書いています。興味があればご覧ください。

体裁はご覧の通り、背幅3mmの薄っぺらい本になりました。




2015年9月23日水曜日

百字文


明治37年、伊藤銀月は萬朝報で「百字文」を始めました。これは読者が自由にテーマを選び百字以内の文章にして投稿、それを銀月が審査して一等1名、佳作5名を選び批評するというものです。当時は「百字文会」という同好会ができるほど人気の企画でした。
果たしてどんなものであったのか、2つほど掲載します。

萬朝報第25回当選作
(一等)

土佐奇聞  小石川 小林渋民

室戸崎と行冨崎との間一里半は渋色の漁民の巣で、美しい女は一人もない、彼等の諦め様が愉快だ、昔空前絶後の一美女が数多の男に恋はれて弱り切り、或朝早く太平洋に身を投げて、再び美人に生まれまいと誓ったからだと。

銀月評 足許に詩材が転がって居ること斯くの如しである。仰向いて空の星ばかり眺めて居る人は、足許の詩材に蹴つまずいて海の中へ落込む虞れがあるぞ。



萬朝報第30回当選作
(一等)

解せぬ恋  下谷 武蔵坊

炭焼く煙だに上がらねば其處には人の住むべしとは思ひも寄らぬ山の奥に「嫁入前だよ可愛がって御呉れ何処へ片付く当も無い」其歌其声断腸の極なるに我は得堪えず歌の主を探めて見れば其名はお露齢は十二!

銀月評 何等の着眼。何等の着想。さうして何等の文筆であらう。之を読んで泣かぬ者はあるまい。泣いてさうして微笑まぬ者はあるまい。


このようなものです。
現代版「百字文」があれば面白いのではないでしょうか。

2015年9月11日金曜日

次の本ができるまで その11


前回掲載した「襤褸(ぼろ)」の残りを載せておきます。写真は褞袍(どてら)でしょうか。もとの生地が分からないほど修理してあります。たぶんそうしてでもこれを着る必要があったのでしょう。一針一針に込められた思いがひしひしと伝わってきます。「芸術」とは対極の、生きていくための地味な仕事ですが、じっと見ているとおごそかな気持ちになるのは私だけでしょうか。


正面 おもて
正面 うら


背面 おもて
背面 うら
風呂敷


※襤褸の美しさを教えて頂いた額田晃作さまに心より敬意を表します。

2015年9月7日月曜日

新聞投稿欄から

先日新聞の投稿欄に掲載されていた文章を紹介します。
投稿主は小学校高学年の女の子で、母親の出産を前にその喜びを綴ったものです。

 私のお母さんのおなかには9月に生まれる予定の赤ちゃんがいます。とても楽しみです。楽しみで、楽しみで、9月になると爆発しているかもしれません。
 爆発するかもしれない理由を説明します。一つ目は、将来の夢が保育士だからです。積極的に赤ちゃんや小さい子と関わっていくと、保育士になるための力がついてきます。赤ちゃんや小さい子の世話をできるだけ多くするとよいと思います。二つ目の理由は、赤ちゃんはとてもかわいいからです。泣いたり笑ったり、気分によって表情がかわります。くすぐったり遊んだりしてあげると、笑顔になります。それがとてもかわいいのです。
 赤ちゃんは全然かわいくないという人もいるかもしれません。でも、大切な一つの命です。いっしょに遊んでみれば、「あっ、かわいいな」と思えるかもしれません。

彼女が母の出産を指折り数えて待っているようすが目に浮かぶようです。とくに「楽しみで、楽しみで、9月になると爆発している」という表現が新鮮で、書きとどめておきました。もう赤ちゃんはうまれたのでしょうか。ひょっとすると一日中赤ちゃんのそばで世話をしているかもしれませんね。

2015年9月1日火曜日

虚子『風流懺法』 ええとこ取り 後編

「風流懺法」の後半を掲載します。


余は便所に立つ。梯子段を降りる。いつのまにやら酔うたと見えてひょろひょろとする。
突然後ろから、「君来てるのかい」と遠慮のない声がする。振り向くと、一念がそこにいる。
一念は、余が昨日まで宿泊していた比叡山の宿坊で身の回りの世話をしていた叡山の小僧である。身寄りのない一念を引き取った伯母が祇園町に居ることは話に聞いて居たが、まさかこのお茶屋とは知らなかった。しかも、芸妓の三千歳とは旧知の仲のようである。余は自分の座敷に一念を招きいれた。
余が一念を連れて来たのを見てお花は唄いながらニヤリと笑う。喜千福も玉喜久もニコリとする。お艶もホホホと笑う。よく見ると余の顔を見て笑うのではなく、三千歳と一念の顔を見くらべて笑うのだ。
「一念はん、おいなはったン、旦那はん知っといるの」
と三千歳は一念を小手招きしてその傍に坐らせる。一念も大人しくその傍に坐る。
「旦那はん、あんたはんどっからそのご夫婦連れといやしたの」
とお艶がいう。
「何これご夫婦なのかい」
と余は驚いて二人を見る。
「あたい一念はんに惚れてるのどっせ。皆でお笑いやす。お笑いたてかまへん。ナァそやおへんか一念はん」
と三千歳は可愛い口をむっと閉じて一座を見る。
「えらいおのろけ、かなわんな」
とお花は撥(ばち)で空を煽(あお)ぐ。一念は余のノートを取り上げて、
「またこんな事かいてるナ。『ウーンと首』って君何のこと。『きといた』って君何のこと」
「きとおいやしたという事をそういいますがな」
と三千歳は美しい顔を一念にすりつけるようにしてノートを覗き込む。
「さっきもいろいろ書いといやした。この画けったいな画やおへんか」
「下手な画だねえ、これ誰を書いたのかい。三千歳さんかい」
「喜千福はんどすがナ、旦那はん喜千福はんが好きやさかいお書きやしたのどすやろ。何どすその画は。大きな頭の坊さんやこと。それも旦那はんがお書きやしたんか。そうか一念はんか。そうかそれが横川(よかわ)の和尚(おっ)さんかァ、横川の和尚さんそないに頭大きいのン、耳もそないに大きいのン、いやらしやの。「コノ耳ウゴク」ほんまに耳が動くのン、けったいなこと、松勇はん、横川の坊(ぼん)さんの耳が動くて。けったいえないか」
「けったいえなあ。一念はんほんまに動くのか。そうか、妙な耳えなあ」
「一念はん。尋常卒業おしたんか」
「したョ。三千歳サンは」
「しました。去年。一念はんは」
「僕も去年」
「そうか同じやな、一念はんは優等(ゆうとう)か」
「僕は一番だったよ。すっかり甲だったよ」
「そうか、おおえら」
「三千歳サンは」
「一年の時はお尻から三番やったんが、二年からほんまに四番になって、卒業する時もやっぱり四番どした、乙が一つあったん」
「何が乙だったの」
体操」
「三千歳サン、こういう字知ってるか」
「横河首楞厳院(しゅりょうごんいん)の楞(ごん)の字だよ」
「そんな坊(ぼん)さんのこと知りますもんか。ソンナラ一念はんこういう字知っといるか」
「そんな変梃(へんてこ)な字知るかい」
「■(女筆で詣らせ候という合字)という字どすがな」
「そんな芸者の事なんか知ってたまるかい。それならこういう字よめるかい」
「むつかしい字えな。知りまへん」
「蘇悉地経(そしつちきょう)といってね三部経の一つだョ」
「そんなら一念はんこういう字知っといるか。書いてしまうまで見んと置きや」
と長い袖でノートを隠すようにして何やら書く。花櫛が灯に光って美しい。
「さあお見。これ何という字どす」
「馬鹿だナァ。へのへのなんか書きやァがった」
「君たちは僕のノートをオモチャにするんだナ。よろしい。それを横川の和尚サンに送って一念は嫁さんがあって二人でこんないたずらをしました、とそういってやるよ。いいかい」
「いいやい。間抜け」
「一念はんのことお告げやしたらひどい目に合わせまっせ。今度お出やしたら殺したげまっせ」
「こわいこと。旦那はんこわいこっちゃおへんか。三千歳はんに殺されたら痛い事どすやろ」
「赤い血が出ないで白い血が出るかも知れない」
「なんぼなとおなぶりやす。ナァ一念はん二人でひどい目に合わしたげまほナァ」
(中略)
しばらくすると下から仲居のみねが、
「一念はん。伯母はんが迎えに来やはりましたえ。早うお帰り」
一念が帰ったあと、
「お父っあんもお母はんも無いのやてな。可哀相やおへんか。どうして横川みたいな淋しい所へ伯母はんがやりはったんやろ」
と三千歳は沈んでいる。
横川の夜は更けにくかったが祇園の夜は更けやすい。
「ハーーイーー」
という子供衆の長い返辞が楼中に響きわたって聞こえる。(終)

2015年8月17日月曜日

芥川龍之介『蜜柑』

芥川龍之介の『蜜柑』です。自分には聞き慣れた歌のように頭のどこかにずっと残っている作品です。それをいまさら、という気がしないでもありませんが、今回はまず題字に中村不折氏の文字を使うことを決めていたので、それに似合った作品としてこれを選びました。同じ作るなら芥川の本の装幀をしていた小穴隆一氏の感性に近づきたいと思っていましたが、やはり無理でした。内容についてはご存知の方も多いので説明は省きます。もし本棚に文庫本でもあれば、久しぶりに読んでみてはいかがですか。



2015年8月5日水曜日

番外 志賀直哉「ノート」より

「戦争は悪である」というと、
 「そりゃ戦争は悪かもしれない。しかし、妻子を忘れ家を忘れて、敵へ向かって驀進する、すなわち忘我の意気はまた一種聖いものではないか。犠牲の精神が貴いものなら戦に行く軍人の心、その意気実に美しいものではないか。だから僕は戦争の善悪は問わん、むしろ賛美したいね。何んのかのいっていても、彼らは真面目だよ。机の上での非戦論なら誰でも出来るが、戦争に行く事は自分の生命を捨てるという事だからね。その意気たるや賛美すべしだ」
というような事をいう人がある。こちらも一寸ウッカリして居ると、感情からツイ同情したいという気にならぬともかぎらぬ。どうかすると、軍人を賛美したくもなる。
しかし我々はどこまでも根本を忘れてはいけない、その意気が愛すべしだろうがそれが戦争の悪を少しも弁護してはいない。別問題である。軍人が忘我の美しい心と、戦争の善悪とは何の関するところぞ、なお冷やかに考えれば狂気なる軍人である、その忘我とは。我々は常に根元を忘れてはならぬ。くだらぬ事で考えがふらつく事があるものだから。

※自らへの戒めとして

2015年7月31日金曜日

虚子『風流懺法』 ええとこ取り

高浜虚子の「風流懺法」の面白さはその会話にある。自分がまるでその場に同席しているように感じさせる描写が絶妙で、登場する舞妓のあどけない仕草が目に浮かんでくる。ここにそのシーンを抜き出してみたい。果たしてどこまで伝わるだろうか。



場所は祇園「一力」の座敷。
訪れた主人公は仲居のお艶に赤い前垂れのいわくを訊いていた──


「三千歳(みちとせ)はん上げます」 
という声が聞える。舞妓は余等の前に指を突いて、
「姉はん、今晩は」 
とお艶(つや)に会釈する。厚化粧の頬に靨(えくぼ)が出来て、唇が玉虫のように光る。お艶の赤前垂れの赤いのが此時もとの通り帯の間に畳まれて、極彩色の京人形が一つ畳の上に坐って居る。
「お前いくつ」 
「十三どす」
「ほんまに可愛い児どすやろう。私等毎日見てますけど、見る度(たんび)に可愛てかないませんわ」
とお艶は銀煙管に煙草をつめる。
「其帯は妙な結びやうね」
「これどすか、こうやつて、ここをこう取つて、こつちやに折つて、こう垂らしますのや」
と赤いハンケチを膝の上でたがねて見せる。白い指が其ハンケチにからまって美しい。
「何というの其名は」
「だらり」 
「髷(まげ)の名は」
「京風」 
「櫛(くし)は」
「これどすか」
と白い手を前髪の後ろにやって、
「花櫛、これは前髪くくり。あなた何書いといやすの」 
と余のノートを覗き込む。
「三千歳はん、今日虚空蔵様(こくぞうはん)へお詣りやしたか」
「ハー」
「何というてお拝みだ」
「阿呆どすさかい智慧おくれやす、ちうて」
銀紙の衝立の蔭からまた人形が一つ出る。
「松勇はんあげます」
「姉はん今晩は」
と三千歳に並んで坐って、
「今日お詣りやしたか」
と三千歳の手を取って自分の膝の上に置く。
「ハー」
「帰りしなにあとお向きやへなんだか」
「向かしまへなんだ」
と三千歳は髷の上を両手で圧へる。
「面白さうなお話ね」
と聞くと、
「虚空蔵様に詣って戻り道にあと向くと智慧かへしますてやわ。あの染菊はんな、つい忘れてあと向かはって、帰らはってから阿呆にならはったて、おぉいや」
とお艶がいう。
「いやらし」
と三千歳と松勇は同じように眉をよせて同じように背中の帯に手をやる。一つの糸で二つの人形が一所(いっしょ)に動いたのかと思われる。ちりけ元から垂れた帯は松勇のが殊に長く畳の上に流れている。
「その帯は何という結びよう」
と又松勇に聞いて見る。
「これどすか、だらり」
「髷は」
「京風」
と同じ事をいう。
銀紙の衝立の蔭から今度は人形が二つ出る。
「喜千福(きちふく)はんあげます」
「玉喜久はんあげます」
「姉はんおほきに」
「姉はんおほきに」
と二人並んで燭台の向うに坐る。此方の二人が鏡にうつったようによく似て居る。
「二人の帯は」
と又聞くと、
「これどすか、だらり」
と喜千福が玉喜久を見る。
「髷は」
「京風」
と玉喜久が喜千福を見る。
「同じことお聞きやす」
と三千歳は笑つて又ノートを覗き込む。
「喜千福はん、あんたの顔見て書いといやすわ。妙な顔にお書きやしたえ」
と三千歳がいう。皆が笑つて喜千福の顔を見る。
「おぉ晴れがまし」
と喜千福は長い袂の中程で顔をかくして、
「姉はん、芸子はんは」
「お花はん貰ひにやったの、もう来やはるやろ、あんた都踊(みやこをどり)にお出るのン」
「ハー」
「踊りばっかり」
「踊りと鼓」
「三千歳はんは」
「踊りばっかり」
銀紙の衝立の蔭から今度は五十余りの芸子が出る。
「お花はんあげます」
「姉はんおほきに」
とお艶に会釈して座ると、
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
と四つの人形が先を争って老妓にお辞儀をする。(続く)

※新字新仮名にしました。

2015年7月28日火曜日

夏目漱石『断片』より


◎昔は御上(おかみ)の御威光なら何でも出来た世の中なり
◎今は御上の御威光でも出来ぬ事は出来ぬ世の中なり
威光を笠に着て無理を押し通す程個人を侮辱したる事なければなり。個人と個人の間なら忍ぶべき事も御上の威光となると誰も屈従するものなきに至るべし。是パーソナリチーの世なればなり。今日文明の大勢なればなり。明治の昭代(しょうだい)に御上の御威光を笠に着て多勢をたのみにして事をなさんとするものはカゴに乗って汽車よりも早く走らんと焦心するが如し。


『夏目漱石全集』第13巻(昭和50年・岩波書店刊)

2015年7月24日金曜日

次の本が出来るまで その10

“次の本が出来るまで その1”で掲載した「悲しき玩具」の残りの頁です。

石川啄木略歴
本名一、盛岡中学中退後、明星派の詩人として出発。20才で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として知られるようになった。渋民小学校代用教員を経て、北海道に職を求め新聞記者として各地を流浪。明治41年(1908)上京。42年『東京朝日新聞』の校正係となるが、なおも窮乏の生活は続く…(以上コトバンクより)

啄木の渋民小学校代用教員時代の給料が月十二、三円だったという。同じ時期、作家の志賀直哉は毎月家からお小遣いとして三十〜四十円貰っていたことをどこかの本で読んだ。覚えとして書き留めておく。
使用の写真はイメージです。


2015年7月17日金曜日

次の本が出来るまで その9

今回は出来なかった本の話ではなく作品を紹介したいと思います。
5点の写真は抽象画のように見えますがそうではありません。これは襤褸(ぼろ)です。写真からは想像もできませんが、元は新品の布団だったり、一枚の着物だったのでしょうか。それが時代を経て、修繕に修繕を重ねた結果このようなものになりました。
これを見て私はやや感傷的に、かじかんだ手を囲炉裏の火で温めながら針仕事をする女性の姿を思い出しました。これらを繕ったのは、家族が寝静まった夜ふけ、鉄瓶から吹き上がる湯気の音だけが聞こえる冬の寒い晩に違いないと……。ああ、どこからか「母さんの唄」が聞こえてきます。



※襤褸の美しさを教えて頂いた額田晃作さまに心より敬意を表します。

2015年7月13日月曜日

番外


内村鑑三『警世雑著』(明治29年・民友社刊)より

正義は口にあり、
政略は腹にあり、
義は名の為に求め、
名は利の為に尊ぶ。

身は党則に縛られて自由を唱え、
心は利欲に駆られて愛国を叫ぶ。
衆愚の声に震え、
寡婦の涙に動かず。

野の獣に断あり、
彼に断なし。
空の鳥に情あり、
彼に情なし。

2015年7月9日木曜日

次の本ができるまで その8

また当分は出来なかった本の話です。
内容も面白いものではありません。不悪。

『擬古十二首』とは李白が古詩に倣って擬作した詩のことです。
以前『漢詩抄』に「古詩十九首之一 行行重行行」を入れた時、この『擬古十二首』を一冊にしたいと思いました。しかし細部の意味が解らず、現代訳が出来ませんでした。学術書ではないのでいい加減な訳で良かったのですが、結局諦めました。自分以外に誰が読むかを考えると、やめたのはいい判断だったかも知れません。どんなものか「其九 去者日以疏」「其十 客従遠方来」を紹介します。何か感じるところがあればさいわいです。
追記
以前漢詩を勉強している方に「漢詩は五言の場合は2+3で、七言の場合は2+2+3で構成されているので、そこで切って読めばある程度の意味は理解できる」と教えて頂いたことがあります。これは大変いいアドバイスだと思いました。私が知らなかっただけならすみません。