2017年12月26日火曜日

次の本が出来るまで その82

森鴎外の遺言書


鴎外は生前遺言書を三通作成している。
初めは明治三十七年二月二十二日、日露戦争に軍医として従軍する直前に作られた。
文面には妻志げに対する不信感が窺える。
二通目は一通目の追加という形で大正七年に作られた。ここでも志げには冷たい。
最後は大正十一年七月六日、親友賀古鶴所に口述筆記させたもので「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」の一文が知られている。
三日後、七月九日午前七時、鴎外は六十一歳(満六十歳)で逝去した。

※字が小さくて読めないかも知れません。


※いろいろあったんでしょうね、森さんちも。

2017年12月19日火曜日

次の本が出来るまで その81


一休禅師


一休禅師が京都紫野にいたころ、書を求める者にはいつも「御用心」と書いていた。

他にもなにか書いて欲しいと求める者があれば「御用心御用心」といくつも書いていた。

また「御用心」以外になにか書いてくれという者には、只という字を添えて「只御用心」と書いて渡していたという。


※一休さんらしい逸話。

2017年12月14日木曜日

2017年12月8日金曜日

次の本が出来るまで その79

トップページ集(上)


年末ということでタイトルページをまとめてみました。

全部ではありません。順序もいいかげんです。不悪。


2017年12月5日火曜日

『桃花源記』陶淵明

陶淵明『桃花源記』


前回紹介した『冬の夜』と並行して作っていました。


 道に迷った武陵の漁夫が、桃林の奥で見たのは、秦の乱を避けた者の子孫が世の変遷も知らずに平和に暮らす社会でした。村に帰った漁夫がふたたびその村を訪ねようとしましたが、その入口はどこを探しても見つからなかったというお話です。

 この物語より、理想郷を称して「桃源郷」という言葉が生まれたと言われています。


表紙は三種類の端切れで作りました。



※原文は拓本のつもりです。青い表紙は題簽の色も青にするべきでした。

2017年11月27日月曜日

千家元麿『冬の夜』

千家元麿『冬の夜』


 『冬の夜』は、年老いて収入もなく、ぎりぎりの暮らしをしていた老夫婦が、凍てつく冬の夜に荷車を引いて夜逃げをするようすを描いた短編です。作者の千家元麿は武者小路実篤に師事し、生涯人道主義を貫いた白樺派の詩人で『自分は見た』(詩集)『青い枝』(小説戯曲集)などの作品があります。



※明日は我が身と思い知る

2017年11月13日月曜日

次の本が出来るまで その78

俳文「銀河ノ序」  松尾芭蕉


芭蕉の俳文を掲載します。俳文とは「俳諧的感覚で書かれた散文のこと。俳諧的な論理の飛躍を生かした、軽妙、簡潔で、含蓄の深さが特色」(コトバンクより)。
これを読むと句の生まれた背景がわかります。



※この文章を横組の味気ないデジタルフォント(個人的な感想です)で綴るのは面白くありません。震えるような芭蕉の感動が文字から伝わらない気がするからです。ここは何としても縦組の古臭い書体でなければダメだと勝手に思い込んでいます。
また私だけかも知れませんが「銀河」という言葉はもっと新しい言葉だと思っていました。

2017年11月9日木曜日

次の本が出来るまで その77

玄関


 そのむかし池大雅が真葛原の住居には、別に玄関といって室も無かったので、軒先に暖簾を吊して、例の大雅一流の達者な字で「玄関」と書いてあったそうだ。

 上田秋成が南禅寺常林庵の小家にも、入り口に暖簾をかけて「鶉屋」とたった二字が認めてあったという事だ。


 拗ね者の金龍通人は自分の戸口に洒落た一聯を懸ておいた。聯の文句はこういうのだ。


「貧乏なり、乞食物貰ひ入る可からず」


「文盲なり、詩人墨客来る可からず」

                               薄田泣菫『茶話』



※江戸時代には式台を構えている出入口を「玄関」と言った。

2017年11月3日金曜日

次の本が出来るまで その76

サマセット・モーム



わたしとして唯ひとつはっきりわかっていることは、何もはっきりわかっていないことのほかにはひとつもない。

                          『要約すると』(新潮文庫)


※原文はどう書かれていたのだろう。見当もつかない。

2017年10月27日金曜日

次の本が出来るまで その75

ことわざ



「女房と10セントを失くしたものは10セントの損」


※『諺の研究』(藤井乙男、1938)に載っていたもの

2017年10月19日木曜日

三遊亭圓朝『士族の商法』

三遊亭圓朝『士族の商法』です。


圓朝は幕末から明治に活躍した落語家で三遊派の大名跡であり、また落語中興の祖として有名です。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口述筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼしたともいわれています。(以上ウィキペディア)


さて『士族の商法』は、食えなくなった武家が汁粉屋を始めるというお話で、圓朝自身が実際に経験した事を噺にしています。時代は明治に変っても武士は武士、町人は町人でどちらがお客か分からないやりとりが絶妙です。


余談ですが明治になっていろいろな新しいお店が登場しましたが一番多かったのは汁粉屋、団子屋、炭焼き屋(焼き鳥屋?)に古道具屋だったそうです。




※口述を文章にすると読む気がしませんが、落語は話にリズムがあり耳で聞くように読めます。

2017年10月16日月曜日

次の本が出来るまで その74

芭蕉の逸話

八月十五夜の頃、田舎の粋人が集って月見の俳席を催しているいるところへたまたま行脚中の芭蕉が通りかかった。彼らは芭蕉を釈門の乞食坊主と見て、俳諧の一句も詠ませ今宵の座興に添えんと無理やり引き上げ、ぜひとも一句所望すると頻りに促した。芭蕉是非無く心を決し、先ず取敢えず


三日月の

と上の句を詠むと彼らは「今宵は満月なるに三日月とは如何に」と腹を抱えて笑うなか芭蕉は悠然と下の句を続けて


頃より待ちし今宵かな

と詠むと今まで大笑いしていた彼らが急に静かになり互いに顔を見合わせ居住まいを正したという。



※本当かどうかは知らない。

2017年10月7日土曜日

次の本が出来るまで その73

前に「次の本が出来るまで その64」で、モームの言葉を紹介しましたが、いささか言葉足らずで本来の意味を伝えていない気がしていました。改めて「人間の絆」に引用された部分を掲載しモームの言いたかったことを明らかにしたいと思います。体裁は前回と同じ原稿用紙にしました。



※世の中は 市の仮屋のひとさわぎ 誰も残らぬ 夕暮れの空

2017年9月21日木曜日

次の本が出来るまで その72

七十二候


「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を短い言葉で表現したものです。
今回は9月22日より10月8日まで、それぞれに関連した歌も載せておきます。


打ちしぐれ雲のいづとに鳴神の音とどろかぬよひのさねどこ


秋風の夜寒の里に宿りして明くる久しと思ひそめぬる


誰をかも招く尾花ぞ棹もなき野川の小舟岸に横たふ


和田の原千里とびこえくる雁をまれ人と人の待ちもこそすれ


※孫の「めばえ」を買いに久しぶりに新刊書店へ行った。文庫の棚を見ていると自分の作りたいものがほとんど本になっている。作る気が失せるので見なかったことにしておこう。