たまには詩
倚りかからず
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
※茨木のりこ(1926〜2006)大阪に生まれる。詩人。
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
※茨木のりこ(1926〜2006)大阪に生まれる。詩人。
養生七不可 杉田玄白
昨日非不可恨悔
きのうは過ぎぬ。たとえ少しの過ちにても改めがたきは勿論なり。
(昨日の失敗をぐずぐず考えるてもしかたがない)
明非是不可慮念
明日はしられず。およそ成ると成らざるは賢愚によらず予め知るるものなり。
(明日何が起こるかなんて誰にもわからない)
飲与食不可過度
飲と食の二つはその品を賞しその味を楽しむためにあらず。ただこれをもって一身を養うために飲み食うものなり。
(飲み食いは生きるため、美味いかどうかよりまず栄養をとることが先決)
非正物不可苟食
食は五味の調和を賞すといえども、食に対して品数多く交え食うべからず。
(いろんなものを一緒に食べるより、新鮮なものを品数少なく食べよう)
無事時不可服薬
薬物は効力あるものゆえ、法にたがう時はかえって害あるものなり。
(みだりに薬を飲まないよう、ほとんどの病気は薬を飲まなくても快復する)
頼壮実不可過房
人の精水は生涯その量の定まりたるものにはあらず。一気の感動により霊液となして射出するものなり。かくあるものを濫りに費やすことは生命を損することである。
(房事が過ぎると精力が減退し生命が危うくなることもあるのでご注意を)
勤動作不可好安
血液は飲食化して成り、一身を周流し、昼夜に止らざること河水の止らざるが如し。これによって生涯を保つこと衆人に異議なし。
(体を動かすことが元気の元で、これによって血液の循環もよくなり気力も満ちてくる)
馬 鹿
最高の馬鹿とは、自分がそうでないと思い、自分以外のすべてがそうだと思っている人である。
グラシアン・イ・エラレス
歴 史
まったく歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪、愚行、不運の登記簿にほかならない。
ギボン『ローマ帝国衰亡史』
戦 争
エラスムス『平和神の慨(なげ)き』
『定義集』
希 望
わたしはおもった。希望というものは、もともと、ある、ともいえないし、ない、ともいえないものだ。それは地上の道のようなものだ。もともと地上には道などなかった。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
魯迅『故郷』
教 育
教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に、残っているところのものである。
アインシュタイン『晩年に想う』
音 楽
音楽は耳で食べるまんじゅうである。
兼常清佐
偶 然
人生においては、偶然というものを考慮に入れなければならない。偶然は、つまるところ、神である。
A・フランス『エピクロスの園』
※なるほどね。
1894年、アメリカオハイオ州コロンバス生まれのジェイムズ・サーバーは、週刊誌『ニューヨーカー』に文章と挿絵を発表し、ユーモア作家としての地位を確立しました。
『妻を処分する男』は秘書の女性と結婚するために妻を殺害する計画をたてた主人公が、何とか妻を地下室へつれていこうと躍起になるのですが、妻は動じることなくあれこれ指図します。気弱な男性と支配的な女性という関係をユーモラスに描いた短編です。
最も思いがけない、短い死。短い死は、人生の最高の幸福である。
✦
彼はよい評判よりも、むしろ大きな評判を欲していた。
✦
過ぎ去る年は、一つずつ、われわれの幸福をわれわれから奪う。
✦
死はなるほど人間の一生の最も注目すべき行為であるが、われわれは死に際しての他人の覚悟を判断するときに、つぎの一つのことを見失わないようにしなければならない。それは、「人はなかなかこの最後の時に来たと思わない」ということである。これが最後の時だと決心して死ぬ人はほとんどない。また、このときほど、希望のごまかしがわれわれを欺くことはない。
希望はたえず耳元で笛を吹く。「他の人たちはずっと重い病気だったのに、死ななかった。お前が思うほど絶望的ではない。もっと悪いばあいにも、神様はいろいろ奇蹟を示してくださった。」これはわれわれが自分のばあいをあまりに重大に考えすぎるところからおこる。
ずっと前のどうでもいい話
※どちらさまも良いお年を。
「人生」の長い旅をゆくとき
よくぶつかる二つの大きな難関がある
第一は、「分かれ道」である
第二は、「行きどまり」である
魯迅「両地書」より
ジェイムズ・ジョイスの短編「エヴリン」を作りました。
家を捨てて船乗りの恋人と新しい人生へ踏み出すかどうか、主人公が最後の瞬間で迷い、結局踏み出せないという話です。こう書くとよくある若い男女の恋の逃避行のようですが、話はそう単純ではありません。面白かったです。
ジェイムズ・ジョイスはアイルランド出身の小説家で、『ユリシーズ』『若き芸術家の肖像』などで知られており、20世紀の最も重要な作家の1人と言われています。
暮春の頃の、しっとりとした夕暮のみどり色の闇。
市井の言語のうちに見出される意味深長な言葉、あれは幾代(なんだい)かの蟻によって穿たれた穴だ。
唐草模様は、模様の中で最も精神的である。
悲劇的な空━━物質的なものに適用された抽象的な形容。
※本人がそう言うなら、それでいい。
虚子の「風流懺法」の面白さはその会話にある。自分がまるでその場に同席しているように感じさせる描写が絶妙で、登場する舞妓のあどけない仕草が目に浮かんでくる。ここにそのシーンを抜き出してみたい。果たしてどこまで伝わるだろうか。
場所は祇園「一力」の座敷。
訪れた主人公は仲居のお艶に赤い前垂れのいわくを訊いていた──
「三千歳(みちとせ)はん上げます」
という声が聞える。舞妓は余等の前に指を突いて、
「姉(ねえ)はん、今晩は」
とお艶(つや)に会釈する。厚化粧の頬に靨(えくぼ)が出来て、唇が玉虫のように光る。お艶の赤前垂れの赤いのが此時もとの通り帯の間に畳まれて、極彩色の京人形が一つ畳の上に坐って居る。
「お前いくつ」
「十三どす」
「ほんまに可愛い児どすやろう。私等毎日見てますけど、見る度(たんび)に可愛てかないませんわ」
とお艶は銀煙管に煙草をつめる。
「其帯は妙な結びやうね」
「これどすか、こうやつて、ここをこう取つて、こつちやに折つて、こう垂らしますのや」
と赤いハンケチを膝の上でたがねて見せる。白い指が其ハンケチにからまって美しい。
「何というの其名は」
「だらり」
「髷(まげ)の名は」
「京風」
「櫛(くし)は」
「これどすか」
と白い手を前髪の後ろにやって、
「花櫛、これは前髪くくり。あなた何書いといやすの」
と余のノートを覗き込む。
「三千歳はん、今日虚空蔵様(こくぞうはん)へお詣りやしたか」
「ハー」
「何というてお拝みだ」
「阿呆どすさかい智慧おくれやす、ちうて」
銀紙の衝立の蔭からまた人形が一つ出る。
「松勇(まつゆう)はんあげます」
「姉はん今晩は」
と三千歳に並んで坐って、
「今日お詣りやしたか」
と三千歳の手を取って自分の膝の上に置く。
「ハー」
「帰りしなにあとお向きやへなんだか」
「向かしまへなんだ」
と三千歳は髷の上を両手で圧へる。
「面白さうなお話ね」
と聞くと、
「虚空蔵様に詣って戻り道にあと向くと智慧かへしますてやわ。あの染菊はんな、つい忘れてあと向かはって、帰らはってから阿呆にならはったて、おぉいや」
とお艶がいう。
「いやらし」
と三千歳と松勇は同じように眉をよせて同じように背中の帯に手をやる。一つの糸で二つの人形が一所(いっしょ)に動いたのかと思われる。ちりけ元から垂れた帯は松勇のが殊に長く畳の上に流れている。
「その帯は何という結びよう」
と又松勇に聞いて見る。
「これどすか、だらり」
「髷は」
「京風」
と同じ事をいう。
銀紙の衝立の蔭から今度は人形が二つ出る。
「喜千福(きちふく)はんあげます」
「玉喜久(たまきく)はんあげます」
「姉はんおほきに」
「姉はんおほきに」
と二人並んで燭台の向うに坐る。此方の二人が鏡にうつったようによく似て居る。
「二人の帯は」
と又聞くと、
「これどすか、だらり」
と喜千福が玉喜久を見る。
「髷は」
「京風」
と玉喜久が喜千福を見る。
「同じことお聞きやす」
と三千歳は笑つて又ノートを覗き込む。
「喜千福はん、あんたの顔見て書いといやすわ。妙な顔にお書きやしたえ」
と三千歳がいう。皆が笑つて喜千福の顔を見る。
「おぉ晴れがまし」
と喜千福は長い袂の中程で顔をかくして、
「姉はん、芸子はんは」
「お花はん貰ひにやったの、もう来やはるやろ、あんた都踊(みやこをどり)にお出るのン」
「ハー」
「踊りばっかり」
「踊りと鼓」
「三千歳はんは」
「踊りばっかり」
銀紙の衝立の蔭から今度は五十余りの芸子が出る。
「お花はんあげます」
「姉はんおほきに」
とお艶に会釈して座ると、
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
と四つの人形が先を争って老妓にお辞儀をする。(続く)
※ずっと前に掲載したものを再掲しています。
『寝顔』の主人公は荷風の小説によく登場する芸者や娼婦でなく、十五歳の女学生です。父を亡くした後、十八しか違わない母と二人で、仲の良い姉妹のように暮らしています。男気のないこの家に、かかりつけの老医師に代わって若い医者が往診に来るようになったのは、最近のこと。その後、長唄の会へ行ったり三人で海水浴へ行ったりと、家族ぐるみの交際が始まって、しばらく経ったある日、電車の中で偶然となりの乗客の会話を耳にします、それは……。
これは歌?
我が恋は 障子の引き手 峰の松 火打ち袋に 鶯の声
春日山 峰こぐ船の 薬師寺 淡路の島の からすきのへら
本に書いてあるままに言うなら、これらは「無心所着体(むしんしょぢゃくたい)の歌」といわれ、「それぞれの句は連想によってつながってはいるが、全体としては意味をなさない歌のこと」だそうです。歌病(かへい)ともいわれました。
※写真はComposition no.Ⅱ/ ピエト・モンドリアン 1913
一生この世の中に暮す間、若き時より老ゆるまで、誠にたわひもなき事なり
自分の持っている定規に合うように人を強いる事を親切と心得ている人がある。こういう人の定規は不思議に曲がっているのが多い。
同情のない親切と同情のある不親切──自分は糊の硬くない浴衣の方がいい。
ある問題に対して「ドーデモイイ」と云う解決法のある事に気のつかぬ人がある。何事でも唯一つしか正しい道がないと思っているからである。
「ドーデモイイ」ということは必ずしも無責任という事を意味するのではない。
常識という言葉の内容はこれを用いる人々によって悉くちがっている。
換言すれば、人の事を「常識がある」とか「ない」とかいうのは
自分と似ているかいないかという意味に了解すればいい。
※寺田寅彦の文章より抜粋。前にも掲載しています。
絵はヴィルヘルム・ハンマースホイ「Interior with Ida Playing the Piano」1910