2021年9月13日月曜日

次の本が出来るまで その212

ギッシングおぼえ書き


  われわれはときとして急に本が読みたくてたまらなくなることがあるが、そんなときなぜだかその理由が分からないこともあるし、おそらくはなにかほんのちょっとした暗示の結果によることもある。昨日も私は夕暮れに散歩していたが、そのときある一軒の古い農家のところにでた。庭の木戸のところに車が止まっていたのでよくみると、それは顔見知りの医者の二輪馬車であった。行きすぎて、ふり返ってみた。煙突の向こうの空には、かすかな夕映えがまだ残っていた。二階の窓の一つには灯が一つきらめいていた。私は、「あ、『トリストラム・シャンディ』だ」と独語した。そして、おそらくは二十年間もの長い間開いたこともない本を読もうと大急ぎで家に帰っていった。


『トリストラム・シャンディ』イギリスの小説家ローレンス・スターンが書いた未完の小説原題は『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』。内容は奇抜で、一貫したストーリーはなく、牧師の死を悼む真っ黒に塗り潰されたページや、読者の想像のままに描いてほしいと用意された白紙のページ、タイトルだけが記された章、自分の思考をあらわす 「マーブルページ」 と呼ばれる墨流し絵のようなページなど読者をからかうような意匠に満ちた本。

※図版は雰囲気だけで選んだ川瀬巴水の「大森海岸」です。