2024年9月25日水曜日

次の本ができるまで その311

 EM・シオラン『生誕の災厄』より


EM・シオラン:1911年ルーマニア生れ。1931年ブカレスト大学文学部卒業、哲学教授資格を取得、1937年パリに留学、そのまま定住、1995年6月死去。



 何年も何年ものあいだ、いや、実際は一生涯、末期のことばかり考えて暮し、ついにその末期に臨んで、さんざん考えたのが無駄だったと、死について考えることはいろいろな役に立つけれども、ただ、死ぬことにだけは役に立たぬと知る。


              ✠

 着想は歩いているうちにやってくる、とニーチェはいった。歩行は思想を霧散させてしまう、とシェークスピアは公言した。

 この二つの命題はどちらも応分の根拠があり、したがって同じように真実だ。誰でも、一時間、時として一分も歩いてみれば、そのことを確かめることができる。


              ✠


 畑のなかに横たわって、土の匂いを嗅ぎ、土こそが私たちの現世での右往左往の、終点でもあり希望でもあると考える。憩いを得て、分解され溶けこんでゆくべきものとして、土以上のものを探すのは無駄なことなのだ。


              ✠


 どんなに些細なものであっても、文章を綴らねばならぬとなれば、真の創意のまねごとぐらいは要るであろう。ところが、しかじかの文章に読者として参入するためには、たとえそれが難解きわまるものであったとしても、少々の注意力があれば充分なのだ。一枚の葉書をどうにか書き果せることのほうが、『精神現象学』を読破することよりも、創造の行為に近い。


              ✠


 奇矯な言辞は葬式では通用しない。結婚式でも誕生の祝でもだめである。不吉な事件──またはグロテスクな出来事──には、きまり文句が要る。怖るべきものは、悲痛なものとともに、常套句にしかなじまないのである。




※ミステリーに飽きたので、少し理屈っぽい本を読んでいます。ほとんどわかりませんが。画像はアンドリュー・ワイエス。本文とは関係なく、単に入れたかっただけです。