2019年12月4日水曜日

次の本が出来るまで その146

斎藤茂吉  『釈迦・王維・鷗外』


茂吉先生が出版社の求めに応じて書いた座右の銘の話


 私は中学校の少年のころ、自ら座右録の如きものを作集したことがある。(中略) 偶々糸書房からの格言徴求があったのを好機として一筆を費すことにした。

天上天下 唯我独尊  てんじょうてんげゆいがどくそん  釈迦

 この句は実際釈迦の句であるか、或いは時を置いた弟子の句か、どういうところで獅子吼(ししく)した以伝であるか、仏教字典一つない今の状態では知り得ないことだらけである。仏教はその範囲広大深淵、専門大家といえども求尋し尽くせないほどであろうが、仰臥しながらひとりしづかに味わうと、この句は、いよいよ娑婆(しゃば)的現身的であるようにおもえる。(後略)

遠人目なし  えんじんめなし  王維

 唐の王維の句である。王維はその山水論に於て、「凡画山水、意在筆先、丈山尺樹、寸馬分人、遠人無目、遠樹無枝、遠山無石、隠隠如眉、遠水無波、高与雲斉、此是訣也」云々と云い、なおそれにつづく文もあるのであるけれども、それ等を尽く除去省略して、単に、「遠人目なし」のみを以て、私の目前に置きたいのである。(後略)

人間はヱジエタチイフにのみ生くること
能はざるものである  鷗外

 ヱジエタチイフは即ちvegetatifで、栄養的、生殖的ということを意味している。

 鷗外のこの語は、人間は栄養的、生殖的のみでは生きること能わざるものであるということになる。もっと簡約すれば、人間は畢竟食・色の欲のみでは生きられないということになる。私は時あって、鷗外のこの語をおもい起こすと、人知れず私の心に慰安を与えて呉れる。時あって私の心を静謐にして呉れる。よって二たびこの語を名句として録し、忘佚(ぼういつ)し去らざらむことを期している。(後略)

※さて自分の場合、何かあったはずだが……。思い出せないので「則天去私」にしておこう。