2025年4月25日金曜日

次の本ができるまで その325

 好意の報酬(上)


ボクはたった一度だけ「イイコト」をしたことがある。


ある日ボクが道を歩いていると、交差点に目の不自由な人がいた。

方向を見失ったのか、白い杖を地面に這わせて行ったり来たりしている。

いつもなら知らん顔をして通り過ぎるボクだが、まわりには人もおらず、途方にくれた様子を見かねて声をかけた。

「どこへ行くんですか」

男性は喫茶店の名を言い、その近くに家があると言う。

その喫茶店は信号を渡ったすぐのところだ。

「じゃ、いっしょに行きましょう」

ボクは彼の横に並び腕をとって歩いた。

店の横を曲がって二三軒行くと、「あんまマッサージ」と書いた小さな看板がぶら下がった家があった。

「じゃ、ここで」

「ありがとうございました」

ボクは道を戻りながら、人助けをした満足感でいっぱいだった。

そのうちそんなことも忘れてしまった。


何ヶ月か過ぎた。

仕事も一段落したある日、

肩がパンパンに張ってきたのでマッサージにでも行こうかなと思った。

その時、前の出来事を思い出し彼のところへ行くことにした。

見覚えのある家の玄関を開け「すみません」と声かけると、

「はい」と彼は奥の薄暗い部屋の隅に置物のように座っていた。

灯りぐらいつければ……と思ったが、彼には必要ないことに気づいた。

「ちょっとマッサージを…」と言うと

「どうぞ、二階へ上がってください」と彼。

ボクはスリッパに履き替え、玄関横の階段を上がって行った。

通りに面した、少し明るい畳の部屋に小さな布団が敷いてあった。

後から上がってきた彼は、

「どうぞ、そこへ横になってください」

と言いながら、タオルを巻いた枕を置く。

ボクはそれを抱えるようにして、布団の上にうつ伏せになった。

横に正座した彼は、何の会話もないまま、ボクの背中に手を置きゆっくり揉み始めた。

平日の午後、あたりはしんとして、ボクと彼の息遣いだけが聞こえてくる。

ボクは目を閉じて、ぼんやりと彼の生活を想像してみた。

一人で暮らしているのだろうか、食事はどうしているのだろう、いつもあんな風に

部屋の隅でじっと座ってお客さんが来るのを待っているのだろうか……。

彼はおし黙ったまま、ゆっくりと肩から腰の方へ手を進めていった。

ボクは小さく「ウッ」とか「アッ」とか言いながらじっとしていたが、

緊張しているのか、体は硬いままでなかなかほぐれない。

「こちらを向いてください」

ボクは彼に向き合うように体を回した。

彼はボクの胸の前に座って、上にした首から肩を黙ったまま揉み続ける。

あいかわらず緊張した空気が流れている。

ボクは目だけを動かして、窓の上の方に少しだけ見える青空を見ていた。

そしてここへ来たことを少し悔やんでいた。


                              次回へ続く


好意の報酬(下)


そうしているうちに、気になることが起こった。
腰を揉んでいる彼の手が動くたびに、ボクの股間にそっと触れていくのだ。
指先で撫でるようにそっとやさしくふれていくのが、ズボンの上からでも感じられる。
初めは思い過ごしかと思ってじっとしていたが、どう考えても意識的に触っているよう思える。
ボクは少し腰を引いた。
「上向きに」
断る理由が見当たらないまま、上向きになった。
彼はゆっくり腰から太もものあたりを揉みながら、手を動かすたびに股間に触れていく。
先ほどよりも少し大胆になった気もする。
ボクは気が気でなく、何度も腰を動かして避けようとした。
この雰囲気のなか口にだして「やめてください」とは言えるものではない。
ボクはなんとか彼の手を避けようと、お腹の上に両手を組んだ。
何かしら気まずい空気が流れ、彼の触る手は止んだ。
「むこう向きに」
彼はそう言ってボクの手のひらを揉み始めた。
そして初めて、ちいさな声で
「あなたはいい人ですね」と言った。
ボクは驚いた。
彼は何ヶ月か前、ほんの一言ふたこと話しただけのボクを覚えているのだろうか。
ボクは彼の顔をそっと見た。
黒い眼鏡の奥の表情はよくわからなかった。
日が傾き、明るかった部屋が薄暗くなった。
ボクは揉まれる手に虫が走るようなむず痒さを感じながら
この時間が早く過ぎることだけを願っていた。
彼はボクの手を胸の前で抱くように揉みながらゆっくりと
「もう一度上向きになってください」
そして独りごとのようにちいさな声で言った。
「あなたはいい人ですね」
                               終


※画像は、La matinée angoissante/ジョルジョ・デ・キリコ/1912年