2019年1月9日水曜日

次の本が出来るまで その117

藝が身を助ける


錦花翁隆志(きんかおうりゅうし)という俳人の句に


 藝が身を助くる程の不仕合 げいがみを たすくるほどの ふしあわせ


という有名な句がある。何をしても上手くいかず、不運つづきで、その日を暮らすことも難しくなった時、むかし習い覚えた三味線や唄を人前で披露して、何とか口を糊する身になったことを句にしたもので、確かに名句であろう。


 さらに、藝が身を助けて大きな幸運に恵まれた人もいる。私の家に出入りする髪結の政吉が云うには、天保の頃、湯島天神脇に小濱何某という御旗本が居た。この家の門番の伝蔵は生来風流を好み、常に欠陶(かけとっくり)を張番所の柱にかけ、花を抛入れて楽しむという男だった。


 ある日、小石川水道町に住む一泉という花の師匠が、この門番所の挿花を見て、門番に似合わぬ風情に感じいり、そこの主人に、まったく野子(やし)の及ぶ所にあらず、と伝えた。主人は驚き、早速伝蔵を呼びつけると、伝蔵は肝をつぶし、何か大きな過ちをしでかしたのだろうかと青ざめた顔でやって来た。


 主人は「お前は挿花を好むようだな、さてさて感心なやつじゃ。一度ここで花を活けてみよ」というと、伝蔵は「めっそうもございません」とひれ伏して辞退したが許されず、そのまま花を活けて差上げたところ、天晴(あっぱれ)の挿し方にみんなが感心したという。


 その後伝蔵は一泉に推挙されて侍に取立てられ、花の師匠となり、一泉も弟子として学ぶことになったという。これは花を活ける技で侍となっただけでなく、師と仰がれる身になったことも、藝の徳であるといえよう。


 これらを見ても、子供の頃に何かしらの技芸を習い身につけて置くべきであろう。今の自分のように老い朽ちてからではどうしようもない。幼き人々は、かならず月日を無駄に過ごす事のないよう、いらざる老いの繰り言ながら記す。    『宮川舎漫筆』より


野子=田舎者

私はたった2か月でソロバン塾を辞めた。