冬歌
冬の歌を五首。読みづらいかも知れませんが嵯峨本フォントで組んで見ました。
粗末な家の名称を並べてみます。むかしは俗世間を嫌い山奥に住む人を「隠者」と呼び、その住まいを山居、閑居、村居、田家などと言ったそうです。今ならすべて「小屋」「ボロ家」でしょうね。
草屋(そうおく) 草亭(そうてい) 草舎(そうしゃ)
草堂(そうどう) 草菴(そうあん) 茅屋(ぼうおく)
白屋(はくおく) 破屋(やぶれや) 蔽屋(へいおく)
柴門(さいもん) 柴扉(さいぴ) 蝸舎(かしゃ)
草蘆(そうろ) 寒窓(かんそう) 尖頭蘆(せんとうろ)
賎屋(しずのや) 葦家(あしのや) 埴生小屋(はにゅうのこや)
四阿(あずまや) 萱軒(かやがのき) 草の戸(くさのと)
柴戸(しばど) 縄樞(なわすだれ) 仮庇(かりのひさし)
竹簀垣(たけすがき) 筵屏風(むしろびょうぶ) 菰簾(こもすだれ)
前々回書いたように、展覧会でこの作品を見て草鞋が目に止まりました。画題は「石山寺」。参拝に訪れた老夫婦が手を合わせてなにか真剣に祈願してる様子を描いています。
というわけで、ここしばらく草鞋を作っていました。
作りながら、なににしても一人前になるのは簡単ではないと感じました。
※とにかく出来たことでひと安心。履いて歩くのはあとで。次の本にやっとかかれます。
しばらく前の朝のことです。
横断歩道で信号待ちをしている私の横に
自転車に乗った母子連れがやってきました。
保育園に行くのかな、と見ていると
女の子が突然、よく通る声でお母さんにこう言いました。
「ねぇママー、たましいってなにー?」
「!」私は、お母さんがどう答えるかを待っていました。
しかしお母さんは娘の声など聞こえなかったように
無言のまま前の信号機をみつめていました。
信号が変わり二人の乗った自転車は走り去って行きました。
私なら何と答えるだろうと考えましたが
考えれば考えるほどわからなくなり、あきらめました。
前句付とは連歌・俳諧で、ある下の句(短句)の前句に対して、上の句(長句)の付句を試みること。(コトバンク)より
一例を紹介します。
『安価生活三百六十五日料理法』(明治44年)に掲載の献立です。100年前の庶民は毎日何を食べていたのだろうと思い調べてみました。作り方は省略します。
11月15日(月)
わかめ汁 タイのあらい 大根がんもどき芋の煮付 じゃが芋焼豆腐 カツオの刺身
フナの雀焼
11月16日(火)
ネギとからし菜の味噌汁 いわしの干物 鳥とこんにゃくの旨煮 サバのせんば汁
奈良漬
11月17日(水)
豆腐味噌汁 金がしら塩焼 ネギのぬた 棒ダラ大根煮 うずら豆 じゃが芋と牛肉
軽便カレー粉
11月18日(木)
蕪の味噌汁 塩ダラのなます 切昆布煮付 いかの天ぷら ヒラメ刺身 うずら豆
ハゼの佃煮
11月19日(金)
わかめ味噌汁 かこい南瓜煮付 塩クジラとネギの汁 三つ葉とあさりの卵とじ
カレイの煮付 べに生姜
11月20日(土)
ぜんまい味噌汁 ニシンの昆布巻 切干大根二杯酢 ブリと蕪のあんかけ うずら豆旨煮
わさび粕漬
11月21日(日)
豆腐と小芋の味噌汁 あわびの旨煮 干瓢とはすの甘煮 あみの塩辛 塩サバ焼物
※自分の小さいころ(当方古稀)を思い出してみると、この献立はかなり豪華な気がします。
たぶん私の家が貧乏だったのでしょう。
お祖父さんに魚を食べさせる。
もしもお祖父さんが中毒しないで、命に別状がなかったら、
家じゅうの者が魚を食べる。
♦︎
悪德──それは人間が背負って生れた袋である。
♦︎
死は怖ろしい。だが、永劫に生きて決して死ぬことがないと意識したら、
もっと怖ろしいことだろう。
♦︎
特別寝台の乗客──それは社会の屑だ。
♦︎
ああ戦慄すべきは骸骨ではなくて、私がもはや骸骨に恐怖を感じないという事実だ。
♦︎
野原の遠景、白樺が一本。その絵の下の題名に曰く、〈孤独〉。
♦︎
自分が悪いと感じる人間だけが悪人であり、従って後悔もできる。
♦︎
幸運に恵まれた、何でもトントン拍子に成功する人間は、
時として何と鼻持ちのならぬことだ!
♦︎
まだ母親の胎内(はら)から出て来ない嬰児のように物を知らぬ男。
♦︎
彼は己の卑劣さの高みから世界を見おろした。
♦︎
あの世へ行ってから、この世の生活を振り返って
「あれは美しい夢だった……」と思いたいものだ。
※以前製作した『21のことば』より選びました。
知恩寺の青空古本市に行った。
本棚を眺めていると、5歳ぐらいの女の子とお父さんが来た。
女の子が「わたし、これがいい」と重そうな本を棚から取り出した。
私はちらっと表紙を見た。
『ブッダのことば 中村元』とあった。
お父さんが「それ、すこし難しくないかい」と心配そうに言うと
女の子は「ううん、わたし、ひらがな読めるから」とページを開いて
「に、か、な、つ、た、い」と声を出して読み始めた。
一字づつだが、たしかにひらがなは読めるらしい。
しばらく見ていると、もう読むのに飽きたのか
「やっぱり、これいらない」と父親に本を押し付けて
ひらひらとどこかへ駆けていった。
※チェーホフの全集を何冊か買う。読まないくせに。
『流渦』は幻想的な掌編を集めた百閒の処女短編集『冥土』の中の一篇です。漱石の『夢十夜』に触発されて書いたと言われています。どれも薄気味悪い話ばかりですが、読み出すとやめられない面白さがあります。今回は『流渦』を選びましたが、『雪』や『木蓮』も捨てがたい味があり選択に迷いました。芥川が推した『冥土』や『旅順入城式』もふくめ一読をおすすめします。
刑罰は善をなそうとする気持を生まずに、悪を犯しながらつかまるまいとする気持だけを生む。
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人間と人間のあいだには、動物と人間とのあいだにおけるよりも、いっそう多くの差異がある。
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昔のあらゆる予言のなかで、最も古く、最も確実なのは、鳥たちの飛びかたから引き出される予言であった。
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少しも苦痛をもたないこと、これが人間の望みうる最大の幸福である。
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現在という時はない。われわれが現在と呼ぶところのものは、未来と過去との接ぎ目でしかない。
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正しい行為の報いは、それを為したということである。
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「許されないことだから、だめよ」と言う女は、「いいわ」と言ったも同然である。
哲学は理屈を並べた詩にすぎない。
※人間の生命など大河の一滴にすぎないという。このちっぽけな感じが好きです。
──お月様のお話です──
昨日のことです。家の軒(のき)の間にあるせまくるしい内庭を照らしてみました。
そこには雛鳥が十一羽と、親鶏が一羽いました。
そこへ小さな可愛らしい少女がやってきて、その鶏どものまわりを、ぐるぐる廻りはじめました。
鶏はびっくりして、コッコッと大きな声で啼きながら、しかしその羽根をひろげて、雛を庇ってやっていました。
そこへ、お父さんがやってきました。そしてこのいたずらな少女を叱りつけました。
私はそれきり、この事は忘れてしまって、空をながれ去ってゆきました。
それから数分の後でしたが、またその内庭を照らしました。今度はまったく静まりかえっていました。
ところが、突然また例の少女が、足音をひそまえながら、そっと鶏小屋にちかよってきました。そして、閂(かんぬき)をはずして、親と雛の鶏のところにしのび込みました。
寝ていた鶏はびっくりして啼き叫んで飛び廻ります。少女はその後を追いかけ廻すのです。
私は壁のすき間からそれを眺めながら、どうも仕方のないいたずらっ子だな、と思っていますと、またお父さんがやって来ました。そして、その少女の腕を掴まえながら、さっきより一層ひどく叱りつけました。
少女は顔をあげて、私をみあげました。その真珠のような瞳からは、大粒の涙が流れていました。
『お前は何をしているのだ?』
と、お父さんに聞かれて、少女はまだ泣きじゃくりながら、
『あたし、鶏さんに、「さっきのことは御免ね」って、あやまりにきたの…』
お父さんはこの無邪気な少女を抱きあげて接吻しました。
私も、あたりいちめんを月のひかりで接吻いたしました。
※昨日(9月21日)の満月の写真をいれる予定でしたが、月はあいにく黒い雲に隠れて見えませんでした。
われわれはときとして急に本が読みたくてたまらなくなることがあるが、そんなときなぜだかその理由が分からないこともあるし、おそらくはなにかほんのちょっとした暗示の結果によることもある。昨日も私は夕暮れに散歩していたが、そのときある一軒の古い農家のところにでた。庭の木戸のところに車が止まっていたのでよくみると、それは顔見知りの医者の二輪馬車であった。行きすぎて、ふり返ってみた。煙突の向こうの空には、かすかな夕映えがまだ残っていた。二階の窓の一つには灯が一つきらめいていた。私は、「あ、『トリストラム・シャンディ』だ」と独語した。そして、おそらくは二十年間もの長い間開いたこともない本を読もうと大急ぎで家に帰っていった。
人間一般を知ることは人間個々を知ることよりも容易である。
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人はその平安を自分自身のうちに見いださないかぎりどこを捜してもむだである。
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むこうの言い分もきいてやろうという気がなくなったら、もうその人の負けである。
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人間における才能の一つ一つは、樹木の一つ一つと同様、それぞれに特有な性質と力を持っている。
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この世はいかに定めなく変わるように見えても、そこには目にみえぬ一種の連続があり、常に摂理によってさだめられた秩序がある。この摂理あればこそ、万物はそれぞれの列をすすみ、その定命の流れに従うのである。
※本文とはまったく関係ない写真ですみません。ここは平安神宮近くの古本屋さん。外観からも想像できるように、店内はいい感じのカオスで、裸電球の下、積み上げた本で家が潰れるのではないかという恐怖と隣合わせの本探しはスリル満点です。近くへお越しの節はぜひ足をお運びください。
われわれはみんな他人の不幸を平気で見ていられるほどに強い。
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人は自分で思っているほど幸福でも不幸でもない。
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おべんちゃらはわれわれに虚栄がなければ通用しないにせ金である。
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希望はずいぶんうそつきではあるけれども、とにかくわれわれを楽しい小道をへて人生の終りまでつれていってくれる。
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嫉妬は恋といっしょに生まれる。しかし恋が死んでも必ずしもいっしょに死にはしない。
♣︎
われわれは人生のもろもろの時期にまったく新参ものとしてたどりつく。いや、われわれはいくつ年をとっても、しばしばそこでは未経験者である。
※頷けるものもあり、そうでないものもあり、ウマいコトをいうのはムズかしい。
新聞の投稿欄にあった文章を紹介します。投稿主は磯田七虹さん(12歳・小学生)です。
学校からの帰り道、私が一人で歩いていると、前にとても重そうにスーパーの買い物袋を持って歩いているおばあさんがいました。
「こんにちは」とあいさつをして通りすぎましたが、気になってふりむくと、休けいしながら歩いていました。思わず戻って「持ちましょうか」と声をかけると「ありがとね」と言われたので、私が買い物袋を持って2人並んで歩きました。
私は、おばあさんに笑顔になってほしいと思って話しかけました。暑くなったこと、学校でタブレットが使えるようになったこと。おばあさんは、うれしそうに聞いてくれました。
分かれ道まで来たので、買い物袋をおばあさんに渡して「さようなら」と言いました。するとおばあさんは「本当にありがとね」と言ってくれました。私は晴れやかな気持ちになり、勇気を出して声をかけてよかったと思いました。おばあさんは笑顔になり、それ以上に私も笑顔になりました。
毎日新聞2021年7月21日(水)朝刊より
※七虹さん、ありがとう。いい文章に出会うと心が洗われます。
世の中には他人に拾われはしまいかという虞(おそ)れがなければ、捨ててしまいたい
ようなものが無数にある。
✣
人間は幸福なときはつねに善良なんだよ、だが善良なときかならずしも幸福とはかぎらない。
✣
女ってものはちょうど『人類』が神々を扱うようにわれわれを扱うものだ。
女は男を崇拝したあげく、あたしのためになにかしてくれといっていつも男を悩ます。
✣
真に魅力のある人間というものは二種類しかない──絶対になにもかも知りつくしている
人間と、絶対になにも知らない人間だ。
✣
女というものは自分の亭主のことを見破ると恐ろしくだらしなくなるか、さもなければ
ほかの女の亭主に買わせたとてもしゃれた帽子をかぶるかのどちらかだ。
✣
女は自分を崇拝してくれる男に逃げられるとだれかよその女の崇拝者を横取りする。
医学[médecine]
健康なときは愚弄(ぐろう)すべし。
怒り[colère]
血行をよくする。したがって、ときどき怒りを覚えることは体によい。
いとこ[cousin]
妻の「遠縁のいとこ」だという男には警戒するよう、夫には忠告すべし。
顔[visage]
「魂を映しだす鏡」。だとすると、ずいぶん醜い魂のひとたちがいるものだ。
老人[vieillard]
洪水や雷雨などが発生すると、土地の老人連中は、こんなにひどいのは見たことがないと
かならず言う。
小間使い[femme de chambre]
みんな女主人を裏切る。
彼女たちの秘密を知っている。
しばしば彼女たちより美人である。
かならず一家の息子によって誘惑される。
キス(する)[baiser]
「接吻する」と言うほうがより上品。
やさしい盗み。
キスを「してもいい」のは、
若い女性の額、
母親の頬、
美人の手、
子供の首筋、
恋人の唇。
※出典:「紋切型辞典」(岩波文庫)
この作品は、彼がパラオの南洋庁に勤務していた頃の見聞を題材にした『環礁─ミクロネシア巡島記抄─』の中の一篇です。
赴任したパラオ諸島に、子供が生まれない離島があります。原因は不明です。島には二十歳以下の人間は、五歳の女の子が一人いるだけで、近いうちに島から人間が居なくなるのは間違いありません。作者は島で満天の星を見ながら、地球上から人類の絶えてしまった後の世界を想像します。「誰も見る者も無い、暗い天体の整然たる運転」の世界を……。いい作品です。
これはSODOMYの発達を書こうと思うものである。自分自身の事実に多少の粉飾を加えるのが前のVITA SEXUALISと違っている点である。HEROの名は「清」とした。別に意味のある事でもない。
清が十一歳の時であった。
清の友達に木村関雄と云う少年があった。毛の薄い雀斑のある瘦せぎすなたちで、笑うと口もとが左へまがる癖があったが清とは誰よりも仲よくつきあっていたのである。
時は春の中ばであった。学校の庭には海棠や木蓮が咲くし狭い池の水もどんよりと柔かな藍色に濁って、何となく暖みのこもった感じをあたえている。その春の日の午後に、清と木村とは掃除番で他の生徒が一時間体操をしている間だけ教室にのこって、はたきをかけたり塵を掃いたりする役になっていた。
用がすむと二人は、向きあった机に腰をかけて、一緒に教科書を見はじめたが、木村ははじめから何となくそわそわして、落ちつかないようであった。何かと云うと清の手をとったり首をなでたりする。清は格別気にもとめなかったが、唯何となくそれが六月蝿かったので、その都度に顔をしかめてとられた手をはなした。勿論教室の中には誰もいない。
隣の教室で読本をよむ声がするより外は、何もきこえない。白い壁にさげられた時計の針はまだ十分すぎたばかりである。窓からは青くはれた空が見えていた。
木村は幾度も居ずまいを直したり、身体をゆすったりした。そして、話のついでに、清の傍へよる。そして、仕舞には、清の背から手をまわして、丁度両手で抱いたようになる。
と今度は、顔を次第に近づけ始めた。時々頬と頬とがふれる。木村は益々力をいれて抱くようにする。
時々話がきれると、清はそれをしおに、木村の手をはなそうとしたけれども、中々はなさない。そうして、しばらくすると、
「君、僕は君にLOVEしちゃった。君はLOVEって事をしってるかい、えっ」と云った。
清は黙っていた。知っているような、知っていないような事である。
その中に、木村は一そう力を入れて、清を自分の胸の方へひきよせた。ところが清がそれを抗がおうとして、左の手を木村の膝へかけると、手がすべって木村の帯の下へさわった。そしてそこに、袴の上から、固いもののあるのを感じた。そうすると、木村は急に早口に「しようよ、ねっ。いいだろう、ねっ。いや、えっ」ときいた。清は何だかわからないので「何を」とききかえした。前に書き落したが、清は木村より二つ年下である。
木村は黙って、清の袴の紐をといた。その時清は、何かがかすかにわかったような気がした。けれども、まだ淡い恐怖に似た感じがするだけで、慥には何ともわからなかった。木村は又、自分の袴もとくと、そこの土間に清を押し仆した。「およしよ、およしってば」「いいじゃないか、ねっ、いや? いいだろう、ねっ」木村は左の手で、清の肩を仰えて起きないようにした。そして右の手で、自分の前をひろげると、又清の前もひろげた。二人ともSARMATAは、はいていなかった。
「およしよ、関さん。およしってば、よう」
清は多少の羞恥を感じたので、こう云った。木村は小さな声で「いいじゃないか、いいじゃないか」と何度も繰返した。
そうして自分の□□□□□した□□□□□を、清のそれに力づよく押しつけた。清のそれは□□□□□していなかった。
清は仰むいたまま、自分の□□□□□に、熱い固い木村のそれを、幾度となく感じたのである。
その中に木村は、黙って前をあわせて、袴の紐をしめた。清も同じようにした。
木村は「誰にも云うのはよし給えよ」と云った。清は好意を以てその注告を守ったほど、まだ何もしらなかったのである。
※冒頭からの一部を掲載しました。伏字のところはローマ字表記です。問題があれば削除します。
「VITA SEXUALIS」は『芥川龍之介未定稿集』(荒巻義敏編、岩波書店)に掲載されています。
『暦物語』より「思いがけぬ再会」「恐ろしい事件が平凡な肉屋の犬によってあばかれた話」の二作を選びました。『暦物語』とはカレンダーに添える短い挿話や教訓話のことで、編集を担当したヘーベルは多くの物語を作りました。二百年も前のことです。彼の作った話は機知とユーモアに富み、現在も愛読されているということです。