志賀直哉の手帳
志賀直哉は帝大生の頃、新しく奉公にきた女中のC(18)に恋心をいだくようになりました。
その思いを書き留めた手帳には
○ Cとの交わりは多少肉欲的になった。
夫婦になろうと約束する前までは余は彼の肉体にふれたのは、或る夜、暗い所で懐中時計を彼から受け取る時に、余の指の先がCの掌にふれた事、これ位なものであった。しかし今は、彼と抱き合って一時間近くも話した。 肉欲的である。(明治40年8月25日)
○ 余は今夜彼とcoupleになった。
余は今日より真に真に真面目にならねばならぬ。この後不真面目であるならば余は大罪人である。地獄に行くべき大罪人である。Cは如何な事情があっても余の妻である。(8月25日)
○ 二人の交わりは漸く肉欲的になりつつある。肉欲程恐ろしいものはない。肉欲程一時的なものはない。而して二人の交わりはその恐ろしき一時的なる肉欲に近づきつつある。(8月26日)
「乃公(おれ)は貧乏するんだがお前貧乏してもいいかい」
「いい事はありませんけれど仕方ありませんわ」
「貧乏はいやか」
「ええ、いやですよ」
「うまいものが食いたいのか」
「うまいものなんかチットモたべたかありませんよ」
「ぢゃいい着物が着たいのか」
「ええ」
「いい着物が着たい」
「ええ、いい着物は着とうございますよ」
「うまいものは食わなくってもいいからいい着物が着たいか」
「ええ」
Cはそれを当然な事のように平気で言った。
彼はたしかに善人である。(8月28日)
『志賀直哉全集第十五巻』より
※本人はかなり熱くなっていますが、当然まわりは猛反対し、けっきょくCは実家に還され、この恋は破局を迎えます。