E・M・シオラン『生誕の災厄』より
E・M・シオラン:1911年ルーマニア生れ。1931年ブカレスト大学文学部卒業、哲学教授資格を取得、1937年パリに留学、そのまま定住、1995年6月死去。
何年も何年ものあいだ、いや、実際は一生涯、末期のことばかり考えて暮し、ついにその末期に臨んで、さんざん考えたのが無駄だったと、死について考えることはいろいろな役に立つけれども、ただ、死ぬことにだけは役に立たぬと知る。
着想は歩いているうちにやってくる、とニーチェはいった。歩行は思想を霧散させてしまう、とシェークスピアは公言した。
この二つの命題はどちらも応分の根拠があり、したがって同じように真実だ。誰でも、一時間、時として一分も歩いてみれば、そのことを確かめることができる。
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畑のなかに横たわって、土の匂いを嗅ぎ、土こそが私たちの現世での右往左往の、終点でもあり希望でもあると考える。憩いを得て、分解され溶けこんでゆくべきものとして、土以上のものを探すのは無駄なことなのだ。
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どんなに些細なものであっても、文章を綴らねばならぬとなれば、真の創意のまねごとぐらいは要るであろう。ところが、しかじかの文章に読者として参入するためには、たとえそれが難解きわまるものであったとしても、少々の注意力があれば充分なのだ。一枚の葉書をどうにか書き果せることのほうが、『精神現象学』を読破することよりも、創造の行為に近い。
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奇矯な言辞は葬式では通用しない。結婚式でも誕生の祝でもだめである。不吉な事件──またはグロテスクな出来事──には、きまり文句が要る。怖るべきものは、悲痛なものとともに、常套句にしかなじまないのである。
※ミステリーに飽きたので、少し理屈っぽい本を読んでいます。ほとんどわかりませんが。画像はアンドリュー・ワイエス。本文とは関係なく、単に入れたかっただけです。
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