2019年3月12日火曜日

次の本が出来るまで その124

蜀山人壁書


太田覃(おおたたん)は号南畝といい、蜀山人といい、又の名を寝惚子とも竹羅山人とも呼び、狂歌狂詩に巧みなことで世に知られている。


※このジャンルの文芸がなくなったのは本当に残念だと思う。

2019年3月8日金曜日

次の本が出来るまで その123

考察


アリストテレスによれば、ヒュパンスの河辺にはたった一日しか生きない小動物がいるという。朝の八時に死ぬのは若死にで、夕べの五時に死ぬのは老衰の死である。こんな束の間のことを幸だ不幸だと考えるのを見て笑わないものがあるだろうか。
われわれの一生も、これを永遠に比べるならば、あるいは山や河や星や樹木やある動物に比べてさえも、やはり笑うべきことである。

※人生が短いのは分かる。

2019年2月23日土曜日

次の本が出来るまで その121

俳諧の妙


服部元好という医者の家が火事で全焼した時、誰かが 

「お医者さん家の黒焼何になる」


と茶化すと、元好は澄まして

「大工左官の腹薬なり」


と応えたという。

※落語のルーツがこのあたりに。

2019年2月18日月曜日

ボードレール『パリの憂鬱』

『パリの憂鬱』ボードレール


ボードレールは18世紀のフランスの詩人で「近代詩の父」といわれています。『パリの憂鬱』は散文詩と呼ばれる新たなジャンルを切り拓いたもので、韻律も脚韻もない散文形式で近代人の孤独と憂鬱を語り、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメら後の詩人たちに大きな影響を与えました。


※カバー写真はもう少しセピア色の予定だったのですが…。

2019年2月8日金曜日

次の本が出来るまで その120

正常とは


正常というものは、稀にしか見いだされないものである。正常とは理想である。
それは人間の性格の平均から、人がつくりだした絵そらごとであって、そうした性格のすべてを、一人の人間に見いだすことは期待できるものではない。
利己主義と親切、理想主義と好色、虚栄、内気、無欲、勇気、怠惰、臆病、頑固、猜疑など、それらがすべて一人の人間の中に共存していて、もっともらしい調和をなしているのである。


パンドラの箱


あの悪魔をつめこんだパンドラの箱の中に、「希望」を加えた事について、神は定めし忍び笑っていられることだろう。あれが中でも一番残忍な悪魔であることはちゃんとご存知なのだ。つまり「希望」とは、惨めさを最後まで耐え忍ぶように、人類を誘(そび)いてゆくものなのである。

※S・モーム『作家の手帳』より。皮肉屋のモームらしい言葉。

2019年2月1日金曜日

次の本が出来るまで その119

餓死の者の発句



※悲惨を極めた天保の大飢饉。決して過去の話ではない。

2019年1月27日日曜日

次の本が出来るまで その118

架空の楽園



 人生に全く満足することに失敗すると、人は想像によってその償いをする。


 どうせ駄目だろうというので、いろいろの人間本来の欲望を断つことになるのだが、しかし人間は大かた断念しきれるものではない。


 それで、名誉欲、権勢欲、愛欲がさまたげられると、幻想を追うことで自分をあざむくのである。現実に背を向け、そうして故障や邪魔なしに欲望を満たすことのできる架空の楽園へ行く。


 そしてこのような心的作用が、非常に価値のあるものだと云って見栄を張る。想像を駆使することが、人間の最も崇高な働きであるように思い込む。


 それでもやはり想像することは即ち失敗することなのだ。


 つまり実在に出あうのに敗れたことの承認だからである。


※S・モーム『作家の手帳』の中の一文。「架空の楽園」という言葉が気になったので。

2019年1月18日金曜日

小泉八雲『人形の墓』

『人形の墓』小泉八雲


 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は記者として来日以来、日本の風習や伝統行事を見聞し、日本人のこころに根ざす礼節、祖先崇拝、宿命観などを研究した作家です。
「人形の墓」は彼が松江に居た頃、稲という十一歳の少女から聞いた話です。少女の両親は相次いで病気で亡くなり、祖母と幼い子供三人が残されました。しばらくは十九になる長男が働いて家計を支えていましたが、その長男も病に倒れてしまいました…。


※表紙は文中にでてくる少女の着物(羽織)をイメージしました。

2019年1月9日水曜日

次の本が出来るまで その117

藝が身を助ける


錦花翁隆志(きんかおうりゅうし)という俳人の句に


 藝が身を助くる程の不仕合 げいがみを たすくるほどの ふしあわせ


という有名な句がある。何をしても上手くいかず、不運つづきで、その日を暮らすことも難しくなった時、むかし習い覚えた三味線や唄を人前で披露して、何とか口を糊する身になったことを句にしたもので、確かに名句であろう。


 さらに、藝が身を助けて大きな幸運に恵まれた人もいる。私の家に出入りする髪結の政吉が云うには、天保の頃、湯島天神脇に小濱何某という御旗本が居た。この家の門番の伝蔵は生来風流を好み、常に欠陶(かけとっくり)を張番所の柱にかけ、花を抛入れて楽しむという男だった。


 ある日、小石川水道町に住む一泉という花の師匠が、この門番所の挿花を見て、門番に似合わぬ風情に感じいり、そこの主人に、まったく野子(やし)の及ぶ所にあらず、と伝えた。主人は驚き、早速伝蔵を呼びつけると、伝蔵は肝をつぶし、何か大きな過ちをしでかしたのだろうかと青ざめた顔でやって来た。


 主人は「お前は挿花を好むようだな、さてさて感心なやつじゃ。一度ここで花を活けてみよ」というと、伝蔵は「めっそうもございません」とひれ伏して辞退したが許されず、そのまま花を活けて差上げたところ、天晴(あっぱれ)の挿し方にみんなが感心したという。


 その後伝蔵は一泉に推挙されて侍に取立てられ、花の師匠となり、一泉も弟子として学ぶことになったという。これは花を活ける技で侍となっただけでなく、師と仰がれる身になったことも、藝の徳であるといえよう。


 これらを見ても、子供の頃に何かしらの技芸を習い身につけて置くべきであろう。今の自分のように老い朽ちてからではどうしようもない。幼き人々は、かならず月日を無駄に過ごす事のないよう、いらざる老いの繰り言ながら記す。    『宮川舎漫筆』より


野子=田舎者

私はたった2か月でソロバン塾を辞めた。

2019年1月1日火曜日

次の本が出来るまで その115

壽算 


謝肇〓〈さんずいへんに制〉(シャチュウセイ)が

  人壽不過百歳、数之終也 
    人の寿命は百歳に過ぎず 数のおわりなり
 
  故過百二十不死、謂之失帰之妖
    ゆえに百二十歳を過ぎても死なないとき これを失帰の妖という

 と云っているが、昔にも百五六十歳、二百歳に至るものが居たという記録がある。『愚管鈔』の皇帝年代記、仁徳天皇のくだりに「大臣の竹内宿彌は六代御後見(おんうしろみ)にて二百八十余年を経たり」とある。(中略)

 最近では志賀随應ほどの長寿はいないようだが、どうもはっきりしない。
 一説に随應は、天正四(1576年)丙子の年、豊後の国に生まれる。志賀氏、名は義則、藤恕軒(とうじょけん)と号す。江戸に来て、新橋のほとりに住み、また赤坂に居たこともある。医師を業とし、そのかたわら神書を見ることを好み、閑な時は、釣を楽しむ。竹田候より月俸を受けるのを辞して江戸を去り、上野の国(群馬県)に赴いた。時に一百三十歳、その終焉の年は不明である。

 昔たまたま其蜩菴(きちょうあん)の『翁草』を見ていると、生島幽軒老人の七十の算賀に来た七人の叟(おきな)の中に志賀随應もいた、と書いてある。
 また随應の墨跡は、好事家に賞翫(しょうがん)されるため偽筆も多く、その手蹟のよいものと、詩句に趣あるものはほぼ贋作である。私が見たものの中で梅龍園主人の所蔵「長生」は間違いなく真跡である。影写して下に掲げる。(下図)


 百有余歳と記した、その心は不明だが、年を隠すのは老人の情でもあり、ここに百何十何歳とは書かないものであろうと考える。

 この老人の墓は江戸愛宕下(あたごした)、天徳寺の不断院にあり、墓誌には云々と、かねて聞いていたのを頼りに、ある日興継(おきつぐ)を伴い不断院におもむき、その墓所を半日あまり探した。しかし見つからず、困り果て、お布施を包み寺僧に頼んで過去帳を見せてもらったら、享保十五(1730年)庚戌の年、と題した戒名の中に、

  真月院諦念随翁居士   志賀随翁
       六月十六日 施主 上野恕信

とあった。
 私が、この墓は今もあるかと問うと、寺僧も知らず、今はその施主も絶えているので、総墓(共同墓)の中にあるかも知れない、と云う。さっそく寺門を出て総墓所によじ登り、興継と共に、聞いた場所はもとより、周辺を見て廻ったが、ここでも見つからず、興継を寺に遣って、寺僧に案内を乞うた。道人が来て、わが寺の諸檀の墓所はここですと指したところを、ひとつひとつくまなく調べたが、そこにも墓はなかった。思うに施主がなくなり、墓石も共に壊れたのだろう、とやむなくあきらめた。卯月の長い一日を、はかなくここで過ごしてしまったことが少し悔やまれる。

 この寺の過去帳に、その戒名があるのなら、最近まで彼の墓はあったのだろう。墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左の方に施主上野恕信と彫られていると聞いていたし、干支がないだけで年月も寺の過去帳と同じである。念のため寺僧に、施主上野氏の事、また過去帳に戒名俗名ともに、「随應」でなく「随翁」と書かれた理由を尋ねたが、はっきりとした答えは得られなかった。寺僧が云うには、寺により在世の名号を戒名に用いる事を許さないこともあるという。麻布二本榎、常行寺にある俳諧師其角の墓誌に「喜覚」と記録するように、随應の「應」を、「翁」の字にかえたのかもしれない。

 一般に言われるように、随應が上野の国に歿したならば、この墓は、その年忌の折などに、江戸にいる親族、或いは由縁のものが建てたと考えられる。しかし、寺の過去帳から推しはかると、享保十五(1730年)六月十六日は、その忌日であり、老人の生れた天正四(1576年)丙子の年より、亨保十五(1730年)庚辰の年まで数えれば一百五十五年となり、これより、百五十五歳で亡くなったといっても、よりどころがある。思うに、墓石の施主、上野氏が何処の人であるかは知らないが、老後の扶助を受けていた随應が、上野家で亡くなったことを誤って、上野の国に歿すというふうに伝えられたのかもしれない。これはあくまで私の推量の説であり、ここに疑問を述べて、後考を俟つ。
                             『玄同放言』より意訳
※失帰の妖というのか。

2018年12月25日火曜日

次の本が出来るまで その114

司馬江漢「春波楼筆記」より いいかげん現代訳


 私はいま七十いくつになり、若いころをふり返り感慨に耽ることがある。私は若いころより、志をたて、何か一芸をもって名を為し、死んだあとも名前が残ることを望み、一流の刀工になろうと思っていた。刀は何より武門の第一の器であり、これを造ることで後代に残し、名を後世に伝えることができると思っていたのである。

 しかし天下は治まり、戦がなくなると、人を斬る道具であり、凶器である刀は装飾品となり、武士は名高い古刀を武門の装いとするようになった。目貫、縁頭など刀脇差の飾りを愛玩する者も増え、中でも後藤家は後藤彫として名を馳せた。また宗眠、宗与、躬卜(みぼく)などが登場し人物虫魚に至るまで、工を競い合った。宗眠は、英一蝶の下絵を使い片切彫という毛彫で一流を工夫した。その二代目宗与もこれを継承し妙手であった。絵にたとえて言えば、後藤は高彫で、金銀その他赤銅火色四分一色々にまじえて形とし、これ極彩色のごとし。躬卜は、肉のある彫にして薄彩色のごとし。宗眠、宗与は墨絵のごとし。おのおの一流を工夫して一家をなしている。私はこの上の工夫がなければ名を得る事は難しい。ここにおいてきっぱりと諦めることにした。(後略)


Sword Guard (Tsuba)
Date:ca. 1615–1868
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold

Sword Guard (Tsuba)
Date:18th century
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold, copper

Sword Guard (Tsuba)
Date:18th century
Culture:Japanese
Medium:Copper-gold alloy (shakudō), gold, copper, silver

Sword Guard (Tsuba)
Date:19th century
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold, copper

※参考までにメトロポリタン美術館の収蔵品から鍔の写真を掲載します。

2018年12月19日水曜日

次の本が出来るまで その113

昔の刑罰 五罪


五罪(あるいは五刑)とは笞杖徒流死(ちじょうづるし)をいう。


笞罪は十より五十回まで、杖罪は六十より百回まで。
笞罪も杖罪もどちらも杖で打つ刑。打つところは臀。昔は背中を打つこともあったが唐大宗の明堂醫経により改められた。


徒罪は五等あって、一年、一年半、二年、二年半、三年。徒は徒隷として、奴としてつかう事。五畿内の徒は京都へ送り、その他はその国々で一屋敷にまとめ、男は身の程に使い、女は裁縫はもとより米を搗かせたり雑用に使う。年限が来たら解放される。


流罪は近、中、遠の三等がある。
近流は越前(京より三百十五里)、安藝(京より四百九十里)、中流は信濃、伊予(京より五百六十里)、遠流は伊豆(京より七百七十里)、安房(千百九十里)、常陸(千五百七十五里)、佐渡(千三百ニ十五里)、隠岐(九百十里)、土佐(千ニ百ニ十五里)へ送られる。


死罪は絞と斬の二等で、頸を絞(しめ)るを絞罪といい、頸を斬るを斬罪という。絞は軽く斬は重い。なぜかというと、絞罪は、立春より秋分までの間は行わないことになっていて、斬罪にあたる重科人は秋分を待たずして首を刎ねるので、恩赦にあう可能性は少ないが、絞罪は秋分を待つあいだに恩赦にあえば、罪が軽くなり、徒流などに減刑されることもありうるからである。

                               「嚶々筆話」より


※なるほどね。

2018年12月8日土曜日

宇野千代『夜』

『夜』宇野千代


「夜」は現代短編小説全集(大正14年・文芸日本社発行)より選びました。宇野千代さんについてはよく知りませんが、恋多き女性だったようですね。「夜」は男女の話ではありません。飲んだくれの父親が帰ってこない。夜更けに母と娘は寝床に入る。土間の戸には燕のために丸い穴が空けてある。今夜は月夜らしい。丸い穴から光が差し込んでくる。父はどこへ行ったのだろう。……そんな話です。


※表紙は障子をイメージしてつくりました。

2018年12月3日月曜日

次の本が出来るまで その112

数えたら50冊


50冊になりました。覚えとしてリストを掲載します。感慨にふけることも、分析することもありません。そんな値打ちの無いことは本人が一番分かっていますから。ニ、三人の友人と自分のために、飽きるまでこっそりと続けようと思っています。

2018年11月22日木曜日

次の本が出来るまで その111

也有の老人教訓



▶人目見苦しきを知るべし

皺はよる ふすべは出来る 背は屈む あたまははげる 毛は白うなる


▶人の数ならぬを知るべし

手は震ふ 足はよろつく 歯はぬける 耳は聞えず 目はうとうなる


▶人のむさがるを知るべし

よどたらす 目汁はたらす はなたらす とりはずしては 小便ももる


▶人のかたはら痛く聞きにくきもの也

又しても 同じ咄に 子ふいてう(吹聴)達者じまんに 若きしゃれごと


▶かかる身の上をもわきまへず

くどうなる 気短になる 愚痴になる 思ひつくこと 皆ふるうなる


聞きたがる 死にともながる さびしがる 出交りたがる 世話やきたがる


                         狂歌集「行々子」より


横井也有(よこいやゆう)江戸時代中期の俳人。狂歌、和歌、書画、平家琵琶、
謡曲、武道などにも通暁していた。俳文集「鶉衣」は有名。


※てっきり自分の事だと思った。

2018年11月9日金曜日

太宰治『朝』

『朝』太宰治


自宅では仕事に集中できない太宰は、知人の家の部屋を昼間だけ借りています。そこはその家の娘の部屋でした。或る夜、飲み過ぎて家へ帰れなくなり千鳥足でその部屋を訪ねます。「泊めてくれ、すぐ寝るから…」。さてどうなることやら。 



※若いころ、太宰治に影響を受けた人は少なくないのでは…。小生もそのひとりです。

2018年10月29日月曜日

次の本が出来るまで その110

老人は


七十歳になったS・モームは言う。

 老人は自分を迷惑なものにしないように努めるべきだ。しいて若い者の仲間に加わろうとするのは軽率である。
 若い者はそのために緊張させられて決して打ちとけぬからで、自分が立ち去ればみんながほっとするのを察しられないようでは、彼は鈍感だと云わざるを得ない。(中略)

 老人は同じ老人仲間の交際につき合うよう忠告される。もしそこから何か楽しみが得られるなら幸いである。片足を墓場に突っ込んだ者たちばかりの集まりへ招かれるのは定めし、憂鬱なことにちがいない。愚人は年寄りになったからとてよくなるものではなく、愚かな老人は愚かな青年より遥かに退屈なものである。
 せめ寄る年波に負けまいとして胸くそわるい児戯のふるまいをする連中と、一方、自分たちが受け入れられぬ世の中になったことに業を煮やしてしばしば席をけってゆく頑固な連中と、どっちが耐えがたいか私はわからない。
 ともかくそんな風で、若い者たちには望まれぬし、同年輩の仲間はこちらで飽きあきだとすると、老人は見渡すところまことに寂寥のようである。

 そうなると彼に残されるのは自分以外になく、そこで私は、自分が誰よりも辛抱づよくこの私に満足して来たのを此の上なく有りがたいことと考えるのである。
 私はもともと仲間の大きな集まりに出るのを好まなかったもので、今、私の上に孤独が深まるにつれて私は一層満足を感じている。

 私は時折、自分の生涯をもう一度繰り返したいかと尋ねられることがある。大体において私の人生はかなりよいもので、おそらく一般の人々よりもよかったろうが、特にもう一度くり返したい気はしない。それはきっと、前に読んだ探偵小説をもう一度読むように気のぬけたものだろう。

 もう十分である。私はあっさりと苦痛なく死にたいと思うだけで、最後の息と共に私の魂も、その切望や弱さもろとも、無に帰すことを確信して満足である。

※ふむふむ。

2018年10月23日火曜日

次の本が出来るまで その109

天行病(はやりやまひ)


                                「閑窓瑣談」より


※今年はインフルエンザの予防接種を受けることにした

2018年10月15日月曜日

次の本が出来るまで その108

気になった文章


『假名世說』 太田蜀山人 



※蜀山人が書いたものではなく編輯したもの。江戸の匂いが漂います。

2018年10月4日木曜日

フランツ・カフカ『観察』

『観察』カフカ



カフカの作品集『観察』より「独身男の不幸」「走り抜けて行く人々」「拒絶」「通りに向かう窓」の4篇を選びました。どれも妄想とも現実ともつかない状況や会話が続くだけで、筋らしい筋もありません。ただ日常生活にひそむ人間の孤独感や不安感だけが伝わってきます。



※印刷が下手です。

2018年9月24日月曜日

次の本が出来るまで その107

モーム語録 女について


女がどれほど不身持(ふみもち)だろうとそれは勝手だが、もし美人でなかったら、大した効果はないだろう。


                ⁂


男の理想の女は、相変わらずあのお伽話の、七枚のふとんを重ねてもなおその一番下に固い豆があるので寝られなかったという王女様である。


                ⁂


女の性格の中で、些末なものへの熱情と記憶の確かさほどすぐれたものはない。女は、数年前に友人らと語り合った、ほんのつまらぬ世間話の中の細かい事を、正確に話そうとすれば話せる。しかも更に悪いのは、実際にそれを話すことだ。


※いや、わたしの意見でなく、モームさんがそう言ってたという話で

2018年9月17日月曜日

岸田國士『女七歳』

『女七歳』岸田國士


劇作家であり小説家でもある岸田國士は、フランスで近代演劇を研究して大正十二年帰国、翌年、戯曲「古い玩具」や「チロルの秋」を発表して、日本の新劇界に新風を巻き起こしました。


「女七歳」は散文集『言葉言葉言葉』(大正十五年・改造社発行)より選びました。が、なぜこの作品を選択したのか、はっきりした理由は思い出せません。帯にも書いていますが、少女の悲しみが心に引っかかったのだろうと思います。



※サイズを小さくしました。性格上、同じものを作るのは厭になるので、なるべく変えてみようとあれこれ試すのですが、けっきょく徒労に終わります。しかし無駄な時間をかけ悪あがきしたことで少し気持が満たされます。

2018年9月4日火曜日

次の本が出来るまで その106

モンテーニュの言葉


「エセー」から、気になった言葉をいくつかを紹介します。


過ぎ去った不幸の思い出は甘い。



私は思い出したくないことを思い出す。

私は忘れたいことを忘れられない。



軽い心配は多弁であるが、重い心配は無言である。



葬式の心づかい、墓地の状態、儀式の立派さは、

生者の慰めにこそなれ、死者の助けとはならない。



未来を知ったとて何の益もない。

いたずらに心を苦しめるのは不幸なことである。



死そのものは、死の期待ほど苦痛ではない。



哲学するとは死を学ぶことである。



避けなければならないその時々の危険を予見することは

誰にもできない。



いつか起こりうることは、今日にでも、起こりうる。



何びとも、その隣人より脆いわけではないし、

何びとも、明日についていっそう確かなわけではない。



運命はわれわれよりもすぐれた意図をもっている。



各人の性格は、それぞれ自己の運命をつくる。


2018年8月27日月曜日

次の本が出来るまで その105

百人一首より (2)


前回の続きです。



※字がうまくなりたい。もう遅いか。