2018年7月6日金曜日

次の本が出来るまで その99

百人一首』より


明治二十一年発行の本より抜き出したものです。その頃は万葉仮名を読める人がまだ世間におおぜい居たのでしょうね。






※文字も画も上手です。

2018年6月26日火曜日

次の本が出来るまで その98

北斎の手簡



葛飾北斎が画に健にして、其のかりそめの手簡(てがみ)などにも、文字を以て意を達すべきを却って画を挿みて事を済ませたる例多きは人の知るところなるが、次に掲ぐるは、文字は其の紙端に「物いはず」と記したる四字のほかには一字も無き絵手紙なり。(『露伴随筆』第二冊より)



※上は元の手簡、下は露伴が解読したもの。


※洒落っ気のある人だということは分かった。

2018年6月20日水曜日

次の本が出来るまで その97

東坡六無


「東坡六無」と云うのは、蘇東坡の嶺南での生活をいったものである。
病無医冬無炭食無魚、外の三つは今は忘れてしまった。
まあ、あとで思い出すこともあるだろう。(『日本随筆大系』より)


※気になる。あとの三つは何だろうと調べたが分からない。で、勝手につくってみた。
雨無傘、嚢無銭、甕無酒、空無月、風無音、心無迷、我無妻。

2018年6月8日金曜日

『芭蕉終焉記 花屋日記抄』並『枯野抄』

『芭蕉終焉記 花屋日記抄』『枯野抄』


『芭蕉終焉記 花屋日記』は、大阪の花屋仁左衛門の裏屋敷で最期を迎えた芭蕉の様子を、臨終に立ち会った弟子たちの記録をもとに、文曉という僧がまとめ再構成したものです。記録にかたよった弟子たちの文章に比べて「花屋日記」は登場人物の戸惑いや諍い、そして衰えていく芭蕉の姿がリアルに描かれています。
正岡子規がこれを読んで感動の涙をこぼした話は有名です。


この『花屋日記』に描かれた臨終の場面を一幕物の舞台のように仕上げたのが芥川龍之介の小説「枯野抄」です。詳しい解説は省きますが、花屋の離れに集まった弟子たちの心の内を芥川独自の描写であきらかにしていきます。わたしは「聖」と「俗」、「悲」と「喜」が交錯するその場に同席しているような気持になりました。


「屬纊(しょくこう)につく」。

作りながらこの言葉が頭をよぎるのは何度も読みすぎたからかも知れません。



※出来上がった時には思いきり言い訳や泣き言を書こうと思っていましたが、今はどうでもよくなりました。

2018年6月4日月曜日

次の本が出来るまで その96

あきらめ

われわれは諦めというものを、自分の苦しみによって学ぶのではなく、
他人の苦しみによって学ぶものである。            


                     (『要約すると』S・モーム)より


※週末NHKを見てふと思った。

2018年5月24日木曜日

次の本ができるまで その95

嘘の理由


ちょっと見ると、不思議なことに、われわれは自分の悪いことが、他人の悪いことよりずっと軽く思われる。思うに、その理由は、そうしたことの起こった環境をすっかり知っているからで、他人の場合は赦せないことでも、自分の場合では、なんとか口実を見つけようとするからである。
われわれは自分の欠点からは眼をそらす。そして、厄介なことが起こって、どうしてもそのことを考慮しなければならなくなっても自分でそれを赦すのは造作ないことである。      (『要約すると』S・モーム)より



※恥ずかしくないのかしらとコメをとぐ

2018年5月18日金曜日

次の本が出来るまで その94

忘八 ぼうはち


廣澤(こうたく)先生が人に誘われて、初めて新吉原の忘八へ行った時のことである。忘八の亭主は廣澤先生が来ていると聞きぜひとも一筆をと希望した。

先生は場所が場所だけに気乗りがせず断ったが、亭主は早々に文房の器を用意して重ねて乞うた。先生はやむを得ず筆を執り此処(このところ) 小便無用」と一行物を書いた。

亭主はそれを見てむっとしたまま不満顔でそれを受け取り、それ以上書を望むことは無かった。

その後ここへ晋子其角が訪れた時、噂を聞き「このままおかんことは無念なるべし、書き添えやらん」と、その下へ「花の庭」と付けたという。



※忘八とは遊女屋のこと。人が孝、悌、忠、信、礼、儀、廉、恥の八ツを忘れ、遊楽に耽る場所としてこう呼ばれるようになった。

※廣澤先生とは江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家の細井廣澤(ほそいこうたく)だと思います。

2018年5月7日月曜日

次の本が出来るまで その93

用名文字


江戸時代の姓名録抄にある「名に用いる文字」を少し整理して掲載します。

可愛いだけのキラキラネームが蔓延するなか、幼稚園などで名前を呼ばれる時などに武士のような名前の子供が居ればかっこいいと思うのは私だけでしょうか。例えばひまわり組の岡崎頼匡(おかざきよりただ)君、山根倫尹(やまねともまさ)君、杉本弼爲(すぎもとすけなり)君、斉藤將房(さいとうまさふさ)君、林田眞盛(はやしださねもり)君、吉田舒喬(よしだゆきたか)君など。しっかりした感じがします。

※知らない文字もあり入力に時間がかかってしまいました。間違いがあってもご容赦ください。

2018年4月24日火曜日

次の本が出来るまで その92

送僧専吟詞


以前芭蕉の銀河之序(次の本が出来るまで その78)を掲載した。今回は芭蕉が専吟という僧に送った餞別の詞を紹介する。無駄のないいい文章だと思う。


※ルビは後から入れたものです。「岸上」は「きしがみ」かも知れません。間違っていたら御免。

2018年4月13日金曜日

次の本が出来るまで その91

酒合戦


文化十二年十月、千住に住む中屋六右衛門の六十の祝いに酒合戦が催されました。芸者や太鼓持ちも呼ばれ三味線の音も賑やかに酒量を競ったそうです。そこでは厳島杯、鎌倉杯、江島杯、万寿無量杯、緑毛亀、丹頂鶴などと呼ばれる杯が使われました。厳島杯は五合(900mℓ)、鎌倉杯は七合(1,260mℓ)、江島杯は九合(1,620mℓ)、万寿無量杯は一升五合(2,700mℓ)、緑毛亀は二升五合(4,500mℓ)、丹頂鶴はなんと三升(5,400mℓ)。杯に万寿無量や緑毛亀(蓑亀ともいう。長寿を象徴する縁起のよいもの)などめでたい席にふさわしい名前をつけるセンスが粋ですね。ちなみに酒は伊丹の「玉緑」と「上竹」、肴はからすみ、花塩、さざれうめ、蟹、ウニ、うずらの焼き鳥、鯉の羹などだったそうです。


※この催しに蜀山人が狂歌をよせてはかりなき大盃のたゝかひはいくらのみても乱に及ばず

2018年4月6日金曜日

萩原朔太郎『虫』

萩原朔太郎『虫』


 萩原朔太郎は近代的な孤独をうたった「月に吠える」や,無為と倦怠を主調とした「青猫」など口語自由詩による近代象徴詩を完成し、以後の日本の詩壇に大きな影響を与えた詩人です。


昭和12年雑誌『文藝』に発表された「虫」はこんな話です。神経衰弱症の男が「鉄筋コンクリート」の〈本当の意味〉を知らないのは自分だけだと思い込み、いろいろな人に尋ねます。しかし誰も本当の意味を教えてくれません。当然ですね。それでも男は必死で答えを探しまわります。そしてある時、男は突然閃きます。「虫だ!」そんな話です。


※表紙の文字は転写シールで作成しました。擦ればすぐに剥がれるいい加減な仕上がりです。

2018年4月4日水曜日

次の本が出来るまで その90

薄田泣菫『茶話』より 親


場つなぎに掲載します。関西弁のゆったりとした響きがいい味で。

2018年3月26日月曜日

次の本が出来るまで その89

落柿舎を訪ねて


春分の日に落柿舎へ行きました。あいにくの雨模様でしたが人も少なくゆっくり散策を楽しむことができました。

遠くてよく見えませんが正面が落柿舎
「どなたかおらぬか」と中へ
振り返って中から見たところ
横に回って見る。入場者はわたしたち二人だけ
縁側からみた家のなか
建物の右側にある台所。井戸もある
床の間
手書きの嵯峨日記
庭に咲く梅の花。香りがほのかに漂う
雨に濡れた苔がうつくしい
静寂のなか、ししおどしの乾いた音が響く
縁側から嵐山を望む。熱いお茶が欲しい
庭を抜けて裏の離れにむかう
離れの全景。句会などが開かれることも
裏側から離れをみたところ
少し歩くと去来先生墳がある
墳の後の墓地にある去来の墓。小さな石が立っていた
※その後二尊院、大河内山荘の方を散策し渡月橋に出て嵐電で帰りました。