『与謝野晶子自選歌集』より
京都に関連する歌を選んでみました。
人々がこの器官のままならぬ自発性を発揮するのも無理はない。この器官は、別に必要のないときに、いやにうるさく出しゃばるくせに、何より必要なときに、折あしく萎縮する。また、独断でいかにも傲然とわれわれの意志に刃向かい、まったく尊大に頑強に、われわれの心や手の勧告をしりぞける。
それにしても、人がこの器官の反抗を非難し、それを証拠にこの器官を断罪しようとするのに対して、もしこの器官が私に弁護を頼んでくるようなことがあるならば、おそらく私は、その仲間である他の諸器官に嫌疑をかけるであろう。他の諸器官は、この器官の機能の重要さと快さを羨むあまり、偽証をならべて訴訟を起こし、彼ら一味に共通する過失を意地悪くもこの器官ひとりに負わせ、この器官に敵対して全世界を武装させようと陰謀をたくらんだのではあるまいか。
カナリア諸島に巨大な騎兵の青銅像が立っていて、これが剣で西方を指していた。
台座にはつぎの文句が刻まれていた。
引き返せ。わしの背後には何もない。
R・F・バートン『千夜一夜物語』二巻百四十一
※寝て起きて食べて寝て起き食べて寝て
楽しみにしていたアンディ・ウォーホール展に行きました。
初めて見る作品や有名な作品が展示されていましたが、画集などで見たものと同じで、実物に出会う感動は残念ながらありませんでした。絵画と違うコンセプトで制作されているので、当然といえば当然ですが。
※写真OKだったので、何枚か撮りましたが、下手ですね。
北斎が88歳の頃、知人が翁の長寿にして気力毫も衰えざることを称賛したところ、翁答えて「我に自製の妙薬あり、常にこれを服するがゆえに然るを得たるなり」と云って、その調剤法を手書して与えた。
文に曰く、
龍眼肉 皮を去り 目方 拾六匁
太白砂糖 八 匁
極上々焼酎 壱 升
壺に入れ能々封じ日数六十日
置きて朝夕猪口にて二つ宛御用ひ
右者長寿之薬に而候此故に八十八歳之唯今を
無病に而罷有候
畫狂老人 卍 ㊞
齢八十八歳
![]() |
鷗外の一幕物のひとつ『團子坂』です。登場人物は帝大生とおぼしき男学生と、裕福な家のお嬢さんらしき女学生。二人は交際しているようです。しかし真面目な男学生は、女学生が望むような「清い交際」を続ける自信がなく、そのうちに自分は狼になってしまうだろうと告白します。さて女学生は……。
団子坂は文京区千駄木2丁目と3丁目の境にある坂で、坂の下に団子屋があったことからこの名がついたと言われています。坂を登ると鷗外の住居「観潮楼」があります。
人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、
恐らくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう。
♣︎
なぜこう悪口が絶えないのか。人々は、他人のちょっとした功績でも認めると、
自分の品位を損ずるように思っている。
♣︎
生活はすべて次の二つから成り立っている。
したいけれど、できない。
できるけれど、したくない。
♣︎
有能な人は、常に学ぶ人である。
♣︎
豊かさは節度の中だけにある。
♣︎
卑怯者は、安全な時だけ、居丈高になる。
♣︎
だれひとり知る人もない人ごみの中をかき分けて行く時ほど、
痛切に孤独を感ずることはない。
♣︎
年をとることは、何の秘術でもない。
老年に堪えることは、秘術である。
♣︎
青年は教えられるより、刺激されることを欲する。
♣︎
苦しみが残して行ったものを味わえ!
苦難も過ぎてしまえば、甘い。
※食って寝ていつのまにやら年の暮。気忙しい時期です。
クーチキン、イワン・サーヴィチ(男)
県書紀、四十二歳、ぶ男、あばた、鼻声、だが風采は立派。良家に出入りを許され、陸軍大佐夫人の叔母あり。借金取立てにて生活。ぺてん師だが、全体に立派な男。良家の生まれでフランス語を話す十八~二十歳の娘を物色中。眉目秀麗にして、一万五千~二万の持参金を是非とも必要とす。
フェシキン(男)
退役将校。酒を飲み、リウマチを病む。看病してくれる妻を望む。寡婦でも可。ただし二十五歳以下にて、財産持ちに限る。
プルドノフ(男)
写真修正業。抵当に入らぬ、年に二千以上の収益ある写真屋を持つ花嫁を求む。酒を飲むが、常時ではなく、ただし泥酔する。ブルネットにして、眼黒し。
グヌーシナ(女)
寡婦。家作二軒および現金十万あり。将軍を求む。退役にても可。左眼にようやくみえるほどの白そこひあり。話す時シュウシュウ言う。寡婦だが、実質的には処女。というのは、先夫が婚礼の当日、四肢の震えにかかったからであると断言している。
オンナスキイ、ヂフテリイ・アレクセーイチ(男)
芝居の役者。三十五歳、身分不詳。父親がウォッカ工場を持つと言うが、おそらくはほら話だろう。常に燕尾服と白ネクタイを着用す。他の衣服を持たぬゆえなり。嗄れ声のために劇団を退く。金さえあれば体型問わず。商家の娘を望む。
マルポチャノフ(男)
もと二等大尉、官金費消と公文書偽造のかどでトムスク県へ流刑を宣言される。一緒にシベリアへ行く覚悟のある孤児の娘を仕合わせにしたいと望む。貴族の生まれの娘に限る。
※1885年頃に書かれたもの。
語訳:秋既に来たり、北風が吹起って空高く白雲が飛んでいる。私は故郷を遠く離れて、今この汾河を渡るのだ。この草木凋落の折に逢い、私の心は千々に乱れ、秋声はとても聞くに堪えられない。
語訳:秋の夕日が村里を照らし、何とはなしに物悲しい心に迫られて来たが、語るべき人もなく、この心を慰めることも出来ない。彼方に見える荒れ果てた古道、そこを通る人影もなく、秋風がうら悲しく禾黍をそよがせている。
※招待券をもらったので泉屋博古館へ木島櫻谷展を見にいきました。天気もよく気持ちのいい一日でした。
恋愛を定義することはむずかしい。われわれが言いうることはただ次のことだけである。
すなわち、「それは霊魂においては支配の情熱、精神においては思想の一致、そして
肉体においてはいろいろな儀式を重ねたすえにけっきょく愛するものを所有したいという
隠れたそして機敏なる欲望。」
もう愛しあわなくなったときにかつて愛しあったことを思いだして恥ずかしく思わないものはまれである。
恋愛をその大部分の結果によって判断すると、それは愛情よりもかえって憎しみのほうに似ている。
恋愛はただひといろしかない。だがその模写(コピー)はさまざまで千をもってかぞえる。
一ぺんも恋愛をしたことのない女を見いだすことはできるが、ただの一ぺんしか色恋をしたことのない女はまことにまれである。
恋愛は火と同じく、不断の動揺なしには存続することができない。だから、希望したり心配したりすることをやめれば、それっきり命たえる。
ほんとうの恋愛は幽霊みたいなもの、皆がその話をするが、正体を見たものはほとんどいない。
※何でしょうね、あのザワザワした感情は。
アントン・チェホフ
ある旦那の屋敷で、馬が盗まれた。
あくる日の新聞という新聞に、次のような声明が載った。
──「もし馬が返されなければ、必要じょう私は、かつて同様な場合に私の父が取ったと同じ極端な措置に訴えねばなるまい。」
おどしは効き目があった。
馬盗人は、何がこわいかは知らないながら、何か異常に恐ろしいことを予想しておびえ、ひそかに馬を返した。
旦那は事件がこんなふうに決着したのを喜んで、友人たちに向かって自分が父親の轍(てつ)を踏む必要がなくなってとても仕合わせだと打明けた。
「しかし、あなたのお父さんは何をなさったのですか?」とみんなは彼にたずねた。
「私の父が何をしたかとおききになるんですね? じゃ言いましょう。……宿屋で馬を盗まれた時、父は自分で鞍を背負って、歩いて家へ帰って来ました。誓って言いますが、泥棒があんなに善良で親切でなかったら、私も同じことをするところでしたよ!」
※かの国の脅しは効果はありやなしや。
今回は小説ではありません。中島敦に『和歌(うた)でない歌』という作品があります。世界の文学者や哲学者、音楽家などを歌に詠んだものです。今回、このうちの34人を選んで、その人の言葉とシルエット、解説を加えたものを作りました。何と呼んでいいのかわからない代物です。どんな体裁の本にするかも決められず、ぐずぐずしていたら今になってしまいました。
※小さな本には扱いにくいテーマでした。
子日庵三我(ねのひあん さんが)という人物は、お旗本松田某の家来で、俗称平野某という。若い頃より俳諧の道を嗜み、謂濱庵蛙水(いひんあん あすい)の門に入り、終に子日庵三我という雅名を名乗り、その門葉も栄えつつ、耳順(じじゅん)の歳になっても、きわめて健康で、寝込むこともなく過ごしていた。
嘉永四亥年八月十五日には
夜の明けは しらでしまひぬ けふの月
と詠み、名月を眺めて、畳の上に横になっていた。
月に嘯(うそぶ)きての仮寝かと思っていたが、よく寝ているようで、いつまで経っても起きてこない。風邪でもひいたら大事と、伜が小夜着を着せに行ったところ、いつのまにか事切れていた。身体が冷たくなっていたのに驚いた家族が、種々手当などしたが、その甲斐もなく亡くなった。
不思議なことに、前日の十四日には社中を残らず廻り、そのうちの松崎某の奥方には不快見舞として、葡萄一籠を手土産に持参し、しばらく話して帰ったという。しかし死後に聞いたところ、伜がいうには、十四日には気分もよく、終日自宅に居て外へは出ていないという。さてこれは不思議なこともあるものだ。
それだけでなく、もっと奇妙なのは、深川霊巌寺脇の棺桶屋へ出家(坊主)一人同行して、棺桶の注文をし、細々としたことは、明日言うからと約束し帰ったという。さて十六日の朝、棺桶屋が来て、「一昨十四日御隠居様お誂えの棺桶、昨日までにお定めくださるとお聞きしていたところ、いまだにご連絡なくどうしたものでしょうか」と言うのを聞いて、伜を始め周りの皆がびっくり仰天した。伜はともかくも今必要なものなので、直ぐに注文した。
このように自分の棺桶まで求め置いて臨終することは、実に日頃の覚悟まで思われ、いと不思議にも尊き終わりならずや。
「宮川舎漫筆」より
※怖い話のようでそうでもない話。
専門家
自分が喜んで話していることが他人を退屈させるとき、人は専門家になったことに気づく。(セブロン)
多数派
多数派とは、少数の精力的な指導者と、同調するろくでなしと、同化される弱者と、自分の欲するものをこれっぽっちも知らずにどうにかついて行く大衆から成っている。(ゲーテ)
政治
宗教は人類の性病である。政治は人類のガンだ。(モンテルラン)
未来
未来は現在の中で最悪のものである。(フローベール)
哲学
仔細に検討してみれば、すべての哲学は支離滅裂な言語に翻訳された常識にすぎない。(ゲーテ)
※「戦争が廊下の奥に立つていた」in russian
書物好きの人に三つの病がある。
其の一は、一時の名望を無暗と欲しがり、徒らに書架の美を誇りたがることである。やれ牙籤※だ、錦の軸だと、装幀にも学識を見せびらかそうとするが、外見を知っているだけで、内容は一切なにも知らない。一冊も書物をもっていないといってよいようなものである。
其の二は、広い範囲から、また遠くから書物を取り寄せ、これに全精力を傾注するものである。しかし沢山蓄えることに努めるだけで、研究などには努力せず、いたずらに灰や塵に汚れ、半ば高閣に束ねられている。書店といってもよいようなものである。
其の三は、博学多識で、一生涯こつこつと努力しつづけるけれども、眼識にはするどさも深さもないため、自らを発揮できない。よく記憶していて、一ページもひろげることなしに、立て板に水を流すがごとく暗誦できるから、美食をしていながら知見のせまい連中に比べると、いかにも隔たりはあるだろうが、一生の間、世に聞こえることのない点は、同様である。
そもそも知ってよく好み、好んでよく運用できるということは、古人でさえ難しいとしたことで、今日ではなおさらである。 『五雑組』より
※牙籤=蔵書を捜し出すのに便利なように、ひとつひとつにつける象牙のふだ。
▶愛書家でも蔵書家でもないが、本はなかなか捨てられない。
これは前に掲載したかも知れません。いやきっとどこかにあると思いますが、全部調べるのも大義なので、忘れていたことにして掲載します。出典は不明です。
わしたち人間の良心って奴は、それがわたしたち自身にも苦痛をあたえんかぎり、他人の苦痛なんてことは、てんで念頭にもない。言葉をかえていえば、それがわしたち自身までを不愉快にでもしないかぎり、他人の苦痛なんてものには、まず例外なく完全に無関心だってことだ。
人間は自己犠牲なんてことを口にする。だが、言葉の通常の意味からすれば、そんなものは存在もしなければ、かつて存在したこともない。
要するにただ一つだけ──己の心の満足を求めるということ、そして自分でもいい気持になるという、ただそれだけだな。
西部劇
西部劇は大嫌いだ。あれは馬鹿げていると思う。いつも同じ馬が村の同じ通りを走っていて、酒場の同じドアがはねあけられて、同じカウボーイが同じ柱に寄りかかっているのだ。
芸術実験映画
いわゆる「芸術実験」映画館は、無意味なたわ言とわけのわからない話を専門に扱う乾物屋である。
シネ・クラブでの試写会後の討論に出た経験のない人は、人生において本当に愉快な思いをしたと言ってはならない。そこでは幻覚を起こさせる両性具有者たちと肩を並べることになるが、彼らはエイゼンシュテインのフィルム編集係の助手の名前について言い争い、『市民ケーン』の第一一四ショットがオーソン・ウェルズの許可なしにアフレコされたことを知っており、ジョン・フォードについてジョン・フォード自身が思ってもみなかったことを知っているのである。
フランス映画
フランスの映画は、陰気でしみったれた姦通の話や、きわめて家庭的で小心なドラマを物語る。人々は小市民国のポタージュスープの中でざわめいている。私が嫌いなのはシネマ・ヴェリテ✻や、ささいな現実の事件、日常生活のありふれた会話、フライドポテトの匂い、「愛している」「さよなら」「そこの塩をとって」「ジェラニウムに水をやって」といった台詞、ピルや社会保障、それにほんのちょっとしたセックスの失敗にも補償金を出したりすることだ。こうしたことはみんな、正当で結構なことだが、実際あまりにも生ぬるく、偽善的である。
✻美的側面を排除してドキュメンタリー風に作った映画
♠︎
怠惰
怠惰な人間とは仕事をしているふりをしない人間である。
♠︎
謙遜
謙遜であるという点では私は誰にも負けない。
♠︎
人間
人間においては、蝶が毛虫になるのだ。
※皮肉が効いている。