2020年6月1日月曜日

次の本が出来るまで その164

断片


 自分の持っている定規に合うように人を強いる事を親切と心得ている人がある。こういう人の定規は不思議に曲がっているのが多い。
 同情のない親切と同情のある不親切──自分は糊の硬くない浴衣の方がいい。

                  ⁂

 ある問題に対して「ドーデモイイ」と云う解決法のある事に気のつかぬ人がある。何事でも唯一つしか正しい道がないと思っているからである。
 「ドーデモイイ」ということは必ずしも無責任という事を意味するのではない。

                  ⁂

 常識という言葉の内容はこれを用いる人々によって悉くちがっている。換言すれば、人の事を「常識がある」とか「ない」とかいうのは自分と似ているかいないかという意味に了解すればいい。

                  ⁂

 AがBを評して「彼は気取っている」という場合には次のように解釈すればいい。即ち「彼は自分とちがった気取り方をしている」と。本当に気取らない人は人の気取るという事を感じない。

                  ⁂

 物事に対して「ツマラナイ」と云うのは「自分はその物事の中にツマルある物を発見する能力を持たない」と自白するに過ぎない。

                  ⁂

 人格の高いと思うような人の口から「人格」という言葉を聞く事は甚だ稀である。

                  ⁂

「邪道」という言葉は頭脳の古い人が新しい人の捉えた真理に名づけるものである。


※なるほどとうなずけるものばかり。
 出典は『寺田寅彦全集』第六巻(昭和二十五年、岩波書店)居る=いる、或る=ある、此の=この、に変えました。

2020年5月16日土曜日

芭蕉翁『幻住庵記』評釈

『幻住庵記』評釈


『幻住庵記』評釈です。芭蕉の文章だけだと短くて本にならないので、参考書を元に自分の程度にあわせて解説をいれました。しかし誰が読んでも面白いというものではありません。少数の読書家が本棚の奥の埃だらけの文庫本を取り出すきっかけになればと思っています。

二つなき翁なりけり此の道におきなといへば此の翁にて   本居宣長


元禄三年四月、門人曲水の叔父、幻住老人が以前住んでいた石山の奥の小庵を訪ねた芭蕉は、山中の風物がたいそう気に入り、ここを「幻住庵」と名づけ仮の住居としました。移り住むこと半年、悠々自適の心境や日常のありさまをさびた文章にしたためました。数多くある芭蕉の俳文の中で『幻住庵記』は『奥の細道」と並ぶ名文といわれています。


※コロナが落ち着いたら一度訪ねてみたいと思っています。

2020年5月12日火曜日

次の本が出来るまで その163

無題


『寺田寅彦全集』第六巻(昭和二十五年、岩波書店)より短文を掲載します。

 大学の構内を歩いて居た。
 病院の方から、子供をおぶつた男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、何といふ皮膚病だか、葡萄位の大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(ぞくせい)して居て、見るもおぞましく、身の毛がよだつやうな心地がした。
 背中の子供は、やつと三つか四つの可愛い女の児であつたが、世にもうらゝかな顔をして、此の恐ろしい男の背にすがつて居た。
 さうして「お父ちやん」と呼び掛けては、何かしら片言で話して居る。
 その懐かしさうな声を聞いたときに、私は、急に何者かゞ胸の中で溶けて流れるやうな心持がした。(大正十二年三月、渋柿)


※ありますね、こんな事。

2020年4月28日火曜日

次の本が出来るまで その162

ヴァニタス vanitas


絵画に興味のある人ならご存知でしょうが。
ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画で、16世紀から17世紀にかけてフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれました。頭蓋骨(死の確実さを意味する)のほかに、爛熟した果物(加齢や衰退などを意味する)、シャボン玉遊びに使う麦わら・貝殻や泡(人生の簡潔さや死の唐突さを意味する)、煙を吐きだすパイプやランプ(人生の短さを意味する)、クロノメーターや砂時計(人生の短さを意味する)、楽器(人生の刹那的で簡潔なさまを意味する)などがあります。(ウィキペディアの受売りです)


 「ヴァニタス─書物と髑髏のある静物」 エバート・コーリアー


「Vanitas Still Life」ピーテル・クラース


「Vanitas still life」N.L. Peschier


「悔い改めるマグラダのマリア」ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
キャンバスに、メアリーがテーブルに座った横顔で示されています。キャンドルはコンポジションの光源ですが、ライトは聖人の顔とテーブルに組み立てられたオブジェクトに黄金色の輝きを放ち、精神的な意味も持ちます。キャンドルライトのシルエットは、本に置かれた頭蓋骨に乗ったメアリーの左手をシルエットにしています。頭蓋骨は鏡に映っています。頭蓋骨と鏡はヴァニタスのエンブレムであり、生命の一時性を意味します。(Google Arts & Culture ちょっと怪しい日本語翻訳の受売りです)

本題と少しはずれますが、ついでにラ・トゥールの作品を。

「ダイヤのエースを持ついかさま師」

「女占い師」
※悪事をたくらむ人の表情と行為を見事に描写していて、はらはらします。
※少し説明不足だったので、頭蓋骨の画像を追加しました。

2020年4月20日月曜日

次の本が出来るまで その161

大塩の乱


唐突ですが大塩平八郎の話です。
天保八年、民衆が飢餓に苦しんでいるのを見かねた大坂町奉行所の元与力大塩平八郎は、門人を集め、米を買い占める鴻池、三井、山城屋など諸豪家の襲撃を計画しました。しかし密告により、蜂起当日に鎮圧されます。大塩は逃亡しますが一ヶ月後発見され、役人に囲まれる中、短刀と火薬で自爆しました。これが「大塩平八郎の乱」です。
この事件で大塩が逃亡中、各所に人相書が貼りだされました。

一、年齢 四十五六歳 (年は45,6歳)
一、顔細長ク色白キ方 (面長で色白)
一、眉毛細ク薄キ方 (眉は細く薄い)
一、眼細ク吊リ候方 (目は細くつり目)
一、額開月代青キ方 (額は広く月代は青い)
一、耳鼻常躰 (耳は普通)
一、背格好常躰中肉 (体格は中肉中背)
一、言語爽カニシテ尖ドキ方 (話し方は爽やかでハキハキしている)
其節之着用、鍬形甲着用、黒キ陣羽織其余着用不分(鍬形の甲に黒の陣羽織を着用)

似顔絵がついていたにしても、これで見つけられるとは思えないが。

2020年4月13日月曜日

次の本が出来るまで その160

クローバー


5歳になる女の子が、草花や石ころを並べてお店やさんごっこに忙しい。
わたしがお客になって近づくと女の子は
「クローバー見せて、と言って」と言った。
わたしはちょっといじわるをして
「いいえ、そちらの石を見せてください」と言うと
「違う!! クローバーを見せて、と言って!」
と少しオカンムリである。
しかたなく「じゃ、クローバーを見せてください」
と言うと、彼女は得意そうに笑いながら
「クローバーは売り切れました!」と言う。
わたしは「そこにあるのを売ってください」
と並べたクローバーを指さすと、
彼女はそれを自分のうしろに隠して
「ありません!」と言った。

※ただそれだけの話ですが、なんか面白かったので書き留めておきました。

2020年4月4日土曜日

小川未明『ペストの出た夜』

『ペストの出た夜』小川未明


コロナウイルスで世界中が混乱しています。これほどではありませんが明治33、4年頃に東京や横浜でも「ペスト」が発生しました。さいわい大きな流行にはならなかったようですが、社会に大きな影響を与えました。

物語の主人公清吉は神経質で、近所にペストが発生したことを知り不安でたまりません。夜中に薬屋へ鼠取りの薬を買いに走ったり、引っ越すために一日中家を探したり、一人慌てます。のんびり構える妻や近所の人の行動がますます清吉の神経を逆なでします。


※もうこんな話はウンザリかも知れませんね。
 扉画はヒエロニムス・ボスの三連祭壇画「快楽の園」右翼(地獄)のスケッチ。

2020年3月31日火曜日

次の本が出来るまで その159

芥川龍之介の即興歌


芥川が「支那遊記」を大阪毎日に連載していた頃、原稿の催促に返事としてよこした手紙に書かれていた即興歌です。新聞連載の苦痛を訴えています。

その一

怠けつつありと思ふな文債にこもれる我は安けからなく

あからひく昼もこもりて文書けばさ庭の桜ふふみそめけり

去年の春見し長江の旅日記けふ書きしかばやがて送らむ

旅日記とくかけと云ふ君の文見のつらければ二日見ずけり

神経衰弱癒えずぬば玉の夢のみ見つつ安いせずわれは

二伸
マガジン・セクシヨンへはその中に何か書きます。何しろ方々の催促にやり切れぬ故、けふ鵠沼に踏晦し、二三日静養した上、紀行及びマガジン・セクシヨンへ取りかかります。
                            芥川龍之介


その二

原稿を書かねばならぬ苦しさに痩すらむ我をあはれと思へ

雪の上にふり来る雨か原稿を書きつつ聞けば苦しかりかり

さ庭べの草をともしみ椽(えん)にあれば原稿を書く心起らず

作者、我の泣く泣く書ける旅行記も読者、君にはおかしかるらむ

赤玉のみすまるの玉の美(は)し乙女愛で読むべくは勇みて書かなむ

支那紀行書きつつをれば小説がせんすべしらに書きたくなるも

小説を書きたき心保ちつつ唐土日記をものする我は

原稿を書かねばならぬ苦しさに入日見る心君知らざらむ

                           澄江堂主人

二伸
一体ボクの遊記をそんなにつづけてもいいのですか。読者からあんな物は早くよせと言ひはしませんか。(云へばすぐによせるのですが)評判よろしければその評判をつつかひ棒に書きます。なる可く評判をおきかせ下さい。小説家とジヤナリストとの兼業は大役です。


※ 薄田泣菫『樹下石上』より

2020年3月25日水曜日

次の本が出来るまで その158

芭蕉翁「二虫」の字に賛す


ある好事家に秘蔵の一幅があった。「二虫」の二字を横に書きつらねたものだが、好事家もさすがにその意味を解し兼ね、面白き賛でもあればと、当時名のある人々に接する毎に賛を求めたが、みなその意味がわからず筆を下すものもなかった。そこへ或る日、芭蕉翁が此の家に宿泊することになり、主人はさっそく例の幅を取り出し、ぜひ賛を書いていただきたしと懇願すれば、翁とりあへず

風と月裸になりて相撲とる

と書いたという。


※風の𠘨と月の外側を取ると虫と二が残る。それが上着を脱いで相撲を取るようだとの解釈らしい。しかし芭蕉がこんな狂歌師のような賛を書くとは思えない。

2020年3月20日金曜日

次の本が出来るまで その157

香川景樹翁


《次の本が出来るまで その150》の続きです。

香川景樹翁が頼山陽(らいざんよう)と相携えて京都の稲荷山に詣でし時、
頼門の書生歌よむ心得を問ひしに
景樹翁「帰るにはまだ日も高し稲荷山 伏見の梅の盛り見てこん」と詠みて、
歌は前に趣向を求むるに及ばず只ありのままに詠むものなりと語りたり。

          *    *    *

或る俳諧師「米洗う前に蛍の二ツ三ツ」という句を得たり。
これは上々の出来と喜び、景樹翁の許に行きこれを示されけるに、
景樹翁これを見て「この俳諧いかにも面白し。されどその蛍は死したるものと思はるる。
これ如何に」と問う。
俳諧師大いに怒り其の故を詰(なじ)るに、
景樹翁「さればなり。もしその蛍の飛行するものならんには、
前に」を「前を」と云はざるべからず」と。
これを聞きたる俳諧師大いに悟るところありしといふ。

※お後がよろしいようで。

2020年3月15日日曜日

次の本が出来るまで その156

盲心経 めくらしんぎょう


江戸時代のおわり頃、文字が読めない人に般若心経を図で読ませる「盲心経(めくらしんぎょう)」というものがあったと橘南谿(たちばななんけい)が『東遊記 後編』に書いています。場所は盛岡の城下から七八十里北西の田山村というきわめて辺鄙な所で使われていたようで、下の図はそれを写したものです。解説もありますが、よくわかりません。一番下に般若心経の原文を掲載します。


摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪日。羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。般若心経。

※誰かが考えたのでしょうね。画ならわかるだろうと。

2020年3月9日月曜日

次の本が出来るまで その155

乞食の歌


『宮川舎漫筆』の中にこんな文章があった。

嘉永五年八月の事なりとかや。下谷山下にて六という乞食死せしところ、
笠の中に詩歌をしるしありし。ある人より写し越しぬ。

一鉢千家飯  一鉢(ひとはち)は千家の飯(めし)。
孤身幾回秋  孤身(こしん)幾回(いくかい)の秋(あき)ぞ。 
夕暖草莚裡  夕(ゆうべ)は暖かなり、草莚(そうえん)の裡(うち)。
夏涼橋下流  夏はすずし 橋下(きょうか)の流(ながれ)
不空遠不立  空(むな)しからざれば 遠く立たず。 
無楽又無愁  楽しみなければ また愁いなし。
人若問此六  人、もしこの六(りく)を問わば、
明月水中浮  明月、水中に浮かぶ

又、

月さへも高きに住めば障(さわ)りあり おきふしやすき草の小莚(さむしろ)
の歌あり。

※諦めというか、悟りというか…。冥福を祈る。

2020年3月2日月曜日

泉鏡花『迷子』

『迷子』泉鏡花


『迷子』はタイトル通り、町のちょっとした事件がテーマです。

お考が歩いていると道で人だかりがしている。のぞいてみると女の子が迷子になったらしい。大人たちがあれこれ訊くが泣くばかりでいっこうに要領を得ない。お考はその様子を見て可哀想でたまらなくなり、ある決心をする……。

時代の雰囲気を感じさせる描写と、人の温かさを感じる短編です。

 
 
 

※地味な本になりました。

2020年2月18日火曜日

次の本が出来るまで その154

名付け親としての森鴎外


鴎外は自分の子供たちに外国人でもわかるような名前をつけている。
 長男 於菟(おと・Otto
 長女 茉莉(まり・Marie
 次男 不律(ふりつ・Fritz
 次女 杏奴(あんぬ・Anne
 三男  類(るい・Rouis
 森於菟の長男 真章(まくす・Max
     次男  富(とむ・Tom

また友人に子供が生まれると名前を頼まれることがしばしばあったようだ。
 與謝野寛氏の娘二人
 與謝野七瀬(ななせ) 
 與謝野八峰(やつを) 
 小山内薫氏の息子
 平野常兒(じょうじ・George)
 山田珠樹氏の息子
 山田 爵(じゃく・Jack
 実弟森順三郎の息子
 森  兌(とおる)

妹の喜美子(小金井良精氏妻)の次女の名前を頼まれた時、鴎外は摩尼(まに)と名付けた。しかしこの名前にはまわりが反対し、けっきょく良精の精を取って小金井精子という名になったという。

※なにかこだわりがあったのでしょうね。

2020年2月11日火曜日

次の本が出来るまで その153

都々逸


紳士淑女が眉を顰めるようなものばかりです。説明はご勘弁を。


※息が詰まりそうな昨今なので、気分転換に。
※2つめは原稿では「惚た女の〜」とありましたが、誤植だろうと思い「惚た女と〜」にしました。

2020年1月28日火曜日

次の本が出来るまで その152

奇想変調録  正岡子規



我眼に触れし俳句の中にて趣向又は言葉の奇なる者ある毎に之を抄録し置きしが其数四十種になりければ題して奇想変調録と名づけ春寒き火燵にこもる人々の笑い草となさんとはするなり。(後略)

 大佛の観音を訪ふ日の永き
 梅及び柳さしたる手桶かな
 小格子より出す手を握る朧月
 吾折々死なんと思ふ朧かな
 美の神の抱きあふて居る菫かな
 紅梅のやうな唇吸いにけり

 睾丸の大きな人の昼寝かな
 男蝉小便すれば女蝉も小便す
 卯の花に尿のかかる闇夜かな
 紫陽花にきのふ紅さして今日はいかに
 蚊を焼くとて蚊帳を焼いてしまひけり

 甲乙の露まとまりて落ちにけり
 蜻蛉や日本一の大眼玉
 活版の誤植や萩に荻交る
 愚なる処すなはち雅なる糸瓜かな
 小便して新酒の酔の醒め易き

 冬籠裸体画をかく頼みなき
 頭巾取れば強盗なりし按摩かな
 禅堂に氷りついてあり僧一人
 此寒さ神経一人水の中
 睾丸の垢取る冬の日向かな
         〔ホトトギス 第三巻第五号 明治三十三年三月十日〕

※選者である子規がいうほど可笑しくないのは、自分のせいか。

2020年1月17日金曜日

次の本が出来るまで その151

奇妙な出来事


志賀直哉の本を読んでいたらこんな文章があった。

──不思議な事もあるものだ。
今日、歌舞伎座へ行って見ると
とってあったのは八ノ一で、黒木、木下、細川が来て居た。
少し遅くなったよ、と云って座へつくと
どうした事か自分は右手に何か紙の切を持って居た。
それは一銭五厘の切手十枚であった。
其手たるや、電車を下りる時、車掌に切符を渡した後、
洋傘をさすに用いたのみ、
どうしてそれが自分の手にあるか、解からん。
何時そんなものを持ったか、第一持っているものの切手であるのも奇妙でならない。
他の三人の裡(うち)で持って来た者があってそれを思わず座る時、
自分がつかんだのかと問えば誰れも知らぬと云う、
そんなものを持って来た覚えなしと云う。
奇妙なこともあったものだ。
その内六枚は其所此所と出す端書に張って了ったが
四枚の残は帰りに考えるにつけ、妙でならず
どうも自分のらしくないから、道で捨てた、
捨てたと云うと罪がないようだが、
実は六枚は用立てたのだから横着な話だ。
自分ながら思えば、余りいい気持ちでもない

※おー、怖ッ。

2020年1月10日金曜日

次の本が出来るまで その150

詠歌の心得


香川景樹翁が
「歌を詠むといえばずいぶん難しく思うものであるが、
眼前の景をありのままに詠めばいいのである。」
などと話しているところに豆腐屋が通った。
翁は、たとえばと

それそこに 豆腐屋の声 聞こゆけり
お三(さん)出て呼べ 行き過ぎぬまに


と詠歌の雑作なさを説いた。


※いえいえ、そんなに簡単ではないと思います。

2020年1月7日火曜日

次の本が出来るまで その149

年賀状


毎年わけのわからない年賀状(?)を作っては受け取る人を困らせています。
最近返事が少ないのは、そのせいかも知れません。


※1月22日(水)より2月2日(日)まで京都のレティシア書房さんで、いままで作った本をならべます。
 ものすご〜くヒマな人はおでかけください。

2019年12月30日月曜日

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手帖』より

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手帖』より


ルネサンス期イタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画、彫刻、建築、土木、科学、数学、工学、天文学など種々の技術に通じ、幅広い分野に足跡を残した「万能の天才」です。彼が四十年間にわたって書き綴った手稿の中で、人や動物に関する文章を選び一冊にしました。ダ・ヴィンチと和本のミスマッチはいかがでしょうか。

内容の一部を紹介します。 

 (こうのとり)
  鸛は塩水を飲んで病をいやす。仲間で落度あるものは見捨ててかえりみない。
  老いると若いものたちが死ぬまで面倒をみる。
 螽蟖(きりぎりす)
  螽蟖はその唄で郭公鳥を沈黙させる。油の中で死んで、酢の中でよみがえる。
  燃ゆる暑さを歌い暮す。


※手稿の3分の2は失われ、現存するのは約5000ページと言われています。何が書いてあったのか、興味ありますね。まあ、読んでも分からないでしょうけど。

2019年12月24日火曜日

次の本が出来るまで その148

為政者の心情


2019年12月22日付毎日新聞朝刊記事「時代の風」の見出し


今だけ 金だけ 自分だけ

※確かに。

2019年12月10日火曜日

次の本が出来るまで その147

夢の浮橋


今年も残すところ二十日あまり、その早さにただ呆然とするのみ。
ここに年末を題材にした歌を掲げその心境を明らかにしたいと思う。


※『子規全集』第五巻 俳論俳話二(講談社、昭和51年)p.583「夢の浮橋」より抜粋しました。

2019年12月4日水曜日

次の本が出来るまで その146

斎藤茂吉  『釈迦・王維・鷗外』


茂吉先生が出版社の求めに応じて書いた座右の銘の話


 私は中学校の少年のころ、自ら座右録の如きものを作集したことがある。(中略) 偶々糸書房からの格言徴求があったのを好機として一筆を費すことにした。

天上天下 唯我独尊  てんじょうてんげゆいがどくそん  釈迦

 この句は実際釈迦の句であるか、或いは時を置いた弟子の句か、どういうところで獅子吼(ししく)した以伝であるか、仏教字典一つない今の状態では知り得ないことだらけである。仏教はその範囲広大深淵、専門大家といえども求尋し尽くせないほどであろうが、仰臥しながらひとりしづかに味わうと、この句は、いよいよ娑婆(しゃば)的現身的であるようにおもえる。(後略)

遠人目なし  えんじんめなし  王維

 唐の王維の句である。王維はその山水論に於て、「凡画山水、意在筆先、丈山尺樹、寸馬分人、遠人無目、遠樹無枝、遠山無石、隠隠如眉、遠水無波、高与雲斉、此是訣也」云々と云い、なおそれにつづく文もあるのであるけれども、それ等を尽く除去省略して、単に、「遠人目なし」のみを以て、私の目前に置きたいのである。(後略)

人間はヱジエタチイフにのみ生くること
能はざるものである  鷗外

 ヱジエタチイフは即ちvegetatifで、栄養的、生殖的ということを意味している。

 鷗外のこの語は、人間は栄養的、生殖的のみでは生きること能わざるものであるということになる。もっと簡約すれば、人間は畢竟食・色の欲のみでは生きられないということになる。私は時あって、鷗外のこの語をおもい起こすと、人知れず私の心に慰安を与えて呉れる。時あって私の心を静謐にして呉れる。よって二たびこの語を名句として録し、忘佚(ぼういつ)し去らざらむことを期している。(後略)

※さて自分の場合、何かあったはずだが……。思い出せないので「則天去私」にしておこう。

2019年11月24日日曜日

フランツ・カフカ「兀鷹」

カフカ短編集「兀鷹(はげたか)」 フランツ・カフカ


カフカの作品は『道理の前で』『あるじの気がかり』『観察』に続いて四冊目です。
今回は表題の「兀鷹」の他に「橋」「出発」「諦めが肝心」「舵手」の五篇を収録しました。
私はつめたく硬直した橋だった……で始まる「橋」や、兀鷹に襲われ自分の脚が喰われるところを見ている男の話など、カフカならではの想像力豊かな世界が表現されています。


 

※出来上がってから誤植に気がつき、しかたなく紙を貼って修正しました。写植屋の頃を思い出しました。

2019年11月20日水曜日

次の本が出来るまで その145

島崎藤村「いろはがるた」


藤村自作のいろはがるた。感想集『市井にありて』(昭和五年、岩波書店)に掲載。

 犬も道を知る
 櫓は深い水、棹は浅い水
 鼻から提灯
 鶏のおはようも三度
 星まで高く飛べ
 臍も身のうち
 虎の皮自慢
 ちいさい時からあるものは、大きくなってもある
 林檎に目鼻
 沼に住む鯰、沼に遊ぶ鯰
 瑠璃や駒鳥をきけば父母がこいしい
 丘のように古い
 わからずやにつける薬はないか
 賢い烏は、黒く化粧する
 好いお客は後から
 竹のことは竹に習え
 零点か、百点か
 空飛ぶ鳥も土を忘れず
 つんぼに内緒話
 猫には手毬
 なんにも知らない馬鹿、何もかも知っている馬鹿
 蝋燭は静かに燃え
 胸をひらけ
 瓜は四つにも、輪にも切られる
 猪の尻もちつき
 のんきに、根気
 玩具は野にも畠にも
 草も餅になる
 藪から棒
 誠実は残る
 決心一つ
 不思議な御縁
 独楽の澄む時、心棒の廻る時
 枝葉より根元
 手習も三年
 鸚鵡の口に戸はたてられず
 里芋の山盛り
 菊の風情、朝顏の心
 雪がふれば犬でもうれしい
 めずらしかろう、面白かろう
 耳を貸して、手を借りられ
 仕合せの明後日
 笑顔は光る
 日和に足駄ばき
 持ちつ持たれつ
 蝉はぬけがらを忘る
 西瓜丸裸

※ふと思いついたが、今年の漢字は「水」ではないだろうか。

2019年11月12日火曜日

次の本が出来るまで その144

覚え書き  〝ルサンチマン〟と〝シャーデンフロイデ〟


ルサンチマン(仏:ressentiment)とは、
弱者が強者に対して持つ「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情をいう。
ニーチェは、強者の君主道徳と対比して、弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンによるものだといった。
弱者はこのルサンチマンの感情から、価値を転倒させることによって復讐を果たす。 
価値の転倒とは、「優れた劣った」という基準の代わりに、「善い悪い」という基準を作り出し、 弱者を搾取する強い人間は「悪い」、弱者は「善い」と呼ぶことである。 
弱者は、「わたしが弱者なのは、社会の構造のせいだ。 また、優位に立つことや 権力を持つこと、富を有することは必ずしも幸福ではない」と考え、弱者としての自分の立場を合理化する。

※難しい。

シャーデンフロイデ(独:Schadenfreude)とは、
自分が手を下すことなく他者が不幸悲しみ苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情のこと。
ドイツ語で「他人の不幸(失敗)を喜ぶ気持ち」を意味する。
日本語で言う「ざまあみろ」の感情であり、「他人の不幸はの味」、「メシウマ(他人の不幸で飯が美味い)」などが類義語として挙げられる。

※反則キップが貼られている高級外車を見た時の気持ちですかね。

2019年10月29日火曜日

次の本が出来るまで その143

卒塔婆小町讃


どこやらで芭蕉が卒塔婆小町の画に讃を頼まれた時の文。画には蓑と笠を身につけた乞食の老女が描かれていたのだろうか。


※卒塔婆小町のストーリーを初めて知った。