2019年6月22日土曜日

次の本が出来るまで その134


愚見数則


言者不知 知者不言


言う者は知らず 知る者は言わず。よけいな、不確かなことを喋々するほど、見苦しきことなし。いわんや毒舌をや、何事も控え目にせよ、おくゆかしくせよ、むやみに遠慮せよとにはあらず。一言も時としては千金の価値あり。万巻の書もくだらぬことばかりならば糞紙に等し。
損得と善悪を混ずるなかれ。軽薄と淡白を混ずるなかれ。真率と浮跳とを混ずるなかれ。温厚と怯懦とを混ずるなかれ。磊落と粗暴とを混ずるなかれ。機に臨み変に応じて、種々の性質を表わせ、一有って二なき者は、上資にあらず。(夏目漱石)

※自戒をこめて。

2019年6月14日金曜日

次の本が出来るまで その133

死にかた



 死にはさまざまな形があり、或る死は、他の死よりもいっそう容易である。死は、各人の想像によってそれぞれ異なる性質を帯びる。

 自然死のなかでは、衰弱と麻痺からくる死が、私には最もおだやかで楽なように思われる。急激な死のなかでは圧しつぶされて死ぬよりも、断崖から落ちる方が、いっそう楽ではない、と私は想像する。私だったらカトー*のように剣で自分を突くよりも、ソクラテスのように毒を飲んだであろう。

 結局おなじであるとはいえ、私の想像は、燃えている大釜のなかに飛びこむのと、ゆるやかな河の流れに飛びこむのとでは、死と生とほどの差異を感じる。それほど愚かにも、われわれの恐怖は、結果よりも手段を重視する。

 それは一瞬でしかない。けれども、これは重大な一瞬であるから、私はそこを自分流に通過するためには、喜んで私の一生の何日かを提供するであろう。

 各人の想像は、死の辛さを、多くあるいは少なく見いだすのであるから、また各人はいろいろな死にかたのなかでいくらか選択ができるのであるから、もう少し前進して、まったく不快をともなわない死にかたを見いだすようにつとめよう。  
                           モンテーニュ「エセー」

*カトー=ローマの政治家。ストア哲学を学んだ。共和政を支持、ポンペイウスに味方してカエサルに反抗。ポンペイウスの死後、アフリカに渡ったが、カエサルの追討を恐れて自殺。小カトー。


※そうだね。

2019年6月8日土曜日

次の本が出来るまで その132

道号


松永貞徳(号長頭丸、又明心居士)云う、相國寺の仁如和尚の御門弟に、俗男の儒学を志し、詩作を自慢せしものあり。入道して道号(どうごう)を和尚に申しければ、彼が心中を知ろしめしたりけん、ただ其方の思うように付かれよ、と宣いしに、東坡山谷*が片字をとりて、坡谷菴(はこくあん)と付きけり。人々きたなき菴号**かな、と笑うよしを聞きて、“菴”の字をのけて“斎”の字に付きたけれど、いよいよ呼称悪しくなりて人に笑われし、と由己法橋かたられ侍りし、大笑い、大笑い。
                               「仮名世説」

* 東坡山谷=蘇東坡、黄山谷、共に宋の詩人
** きたなき菴号=はこは糞のこと

※現代でいえば雲竹菴、雲竹斎ですかね。

2019年5月24日金曜日

次の本が出来るまで その131

短句



短句とは「七七」の十四文字でつくられます。これは連歌の前句である「五七五」が俳諧や川柳になったあとの「七七」が独立したもので、宝暦頃に流行しました。いくつか掲載します。


※前に言葉を入れたくなるのはわたしだけ?

2019年5月16日木曜日

永井荷風『罹災日録抄 偏奇館炎上』

『罹災日録抄 偏奇館炎上』


「罹災日録」(扶桑書房・1947年)は荷風が大正6年から昭和34年まで42年間書き続けた日記「断腸亭日乗」の昭和20年分だけを選抜したものです。今回はさらに絞り込み3月9日未明の東京大空襲後の3日間を選んで製作しました。この空襲による死者は10万人以上といわれ「偏奇館」も全焼します。最後の様子を眺める荷風の心情はいかばかりか、歴史に残る大空襲3日間のドキュメントです。




※何があろうと戦争はだめ。そんなことすら理解できない輩が政治家だなんて…。

2019年5月9日木曜日

次の本が出来るまで その130

女性


女性に対しての格言(皮肉や毒舌)を集めてみた。これらがすべて真実だとは思わないが。


後悔 Regret


貞淑な女たちは、犯さなかった過ちが残念でならない。(サシャー・ギトリー)

秘密 Secret


女が守る唯一の秘密は自分の知らない秘密である。(セネカ)

四つの真実 Quatre Vérités


私の体の四分の三が墓に入ったら、女についてどう思うか口にしよう。それから墓穴の蓋石を勢いよく閉めよう。(レフ・トルストイ)

年齢 Âge


一人の女はさまざまの年齢をもつ。見かけの年齢、友人たちが与えている年齢、彼女が告白する年齢、そして彼女が隠している年齢である。(アシール・トゥルニエ)

手への接吻 Baise-main


私は男が初対面の女性の手に接吻する習慣に賛成である。いずれにせよどこかから始める必要があるのだから。(サシャー・ギトリー)

おしゃべり Bavardage


私が妻には話しかけなくなって二年になる。それは彼女の言葉をさえぎらなかったからだ。(ジュール・ルナール『日記』)

女が黙るのは何かを言おうとしているからだ。(ジョルジュ=アルマン・マソン)

身持ちのよい女 Honnête


「それじゃ身持ちのよい女というのはいないのかい。」
「そんなことはない。思っているより多くいるよ。でも言われているほど多くはないがね。」

不倫 Infidélité


女の中には、その不倫だけが、彼女らをまだ夫に結びつけている唯一の絆であるという人達がいる。(サシャー・ギトリー)

女には二種類しかない。不倫をする女と、不倫はしていないと言い張る女である。(マルセル・アシャール)

知性 Intelligence


彼女が知的に見えるのは、彼女が自分に理解できないことを聞いているときだけだ。(ジュール・ルナール『日記』)

※私は女性とは花が散るのを見ても涙をながすセンチメンタルな生き物だと思っている。えっ! 違うの!。

2019年4月28日日曜日

次の本が出来るまで その129

大田垣蓮月


江戸後期の女流歌人。京都の人。名は誠(のぶ)。夫の没後、尼となり、法名蓮月を名乗る。陶器を作り、自詠の歌を書いて生活の資とした。


※たまにはしっとりとした情感を味わうのも興。たまにはね。

2019年4月17日水曜日

次の本が出来るまで その128

芭蕉「笠張説」


ある日、芭蕉は「あーぁ、なんかやる気出ないし、気分転換に笠でも作ろうっかな」と言ったとか言わなかったとか。


※どうやら上出来ではなかったようです。

2019年4月10日水曜日

次の本が出来るまで その127

ただ何となく「春は曙」


『枕草子』の一節を文学士 中村徳五郎訳で掲載します。


※新しすぎないのがいいですね。

2019年4月1日月曜日

フレデリック・ブウテ 森鷗外訳『橋の下』

『橋の下』フレデリック・ブウテ 森鷗外


物乞いをして暮らす「一本腕」は橋の下で寝起きしている。雪の降るある日、いつものように帰ってくると見知らぬ老人がいた。穴だらけの外套を着、白い髭を生やした男は「一本腕」と同じ境遇のように見えた。老人は横になったまま「一本腕」が手にした一切れのパンを物欲しげに見ている……。



※都会では今もありそうな話です。

2019年3月27日水曜日

次の本が出来るまで その126

草木の異名


誰がいつ名付けたのか、花や草にはそれぞれ名前がある。また正式な名称のほかに通名で呼ばれることもよくある。いくつかを紹介する。


※私は花を知らない。花も私を知らない。

2019年3月19日火曜日

次の本が出来るまで その125

相對死(あいたいじに)

※原文に適宜送り仮名を入れました。

元禄八(1695年)亥十二月七日、摂州西成郡下難波領(今の大阪難波千日前あたり)墓所南側石垣の根畑にて、年頃三十四、五の男と年二十四、五の女、咽を切り二人とも相果て居り候。

一、男の疵は咽二寸ほど、腹臍の上一寸ほど、突き疵に相見え申し候
一、女の咽四寸ほど、突き疵えぐり候様に相見え申し候

男の衣類
一、郡内縞両面綿入れ 一ツ
一、つむぎ茶帯    一すじ
一、羽二重下帯    一すじ
一、皮足袋      一足
一、珠数       一連 (手に掛け罷在候)
一、脇差       一腰 (拵え焼付金具長二尺一寸 糸柄)
一、小刀 (但し脇差しの鞘に御座候) 銅柄

女の衣類
一、日野すす竹小紋綿入れ 一ツ(但しひの茶裏)
一、郡内縞綿入      一ツ(但し同しま紫色裏)
一、京ろく帯       一すじ
一、緋ゆく        一すじ
一、もめん足袋      一足
一、縮緬ふくさ      一ツ(但し紅裏)

  右の通り男女着し居り申し候

一、封じ状(遺書) 一通
   三勝母殿
   みのや半左衛門殿

一、木綿茶色布子(但しこれは二人の者の下に敷居り申し候)


  右の通り吟味仕り候処相違い無く御座候 以上


元禄八年亥十二月七日


遺書の文
為参候。御袋様にはいつぞやくれぐれ申し置き候事も、みないつはりと成り、今更に恥ずかしく存じ候得ども、しかし果古(過去)のこうなりとおぼしめし、御あきらめ頼み存じ候。此の度三勝わたくし斯く相果て候事、嘸々(さぞさぞ)にくしと思し召候はんなれども、たがいに捨てがたき一命をかけ、斯く成り行き候事くどく具(ここ)にかかずとも、恋の切なる事、推いりやう可被下候。各様にも身の上の大事なる娘、我身もひとりの母と申、殊にはしんしよの中もわきまえず、人口にかかる死をとげ申し候。めいめい浮気なりとは思し召被下まじく候。兎にも角にも筆にはいわせがたく候まま、なからん跡不便(不憫)と思し召、よろ敷くたのみ存じ候。次第にあとには志れ不申し候間、筆をとめ申し候、以上。

 十二月
   三勝どの
    御袋殿                半  七
    半左衛門殿



※この事件はのちに「三勝半七」という名で浄瑠璃や歌舞伎などに脚色され人気を博しました。
 古柳句に「心中はほめてやるのが功徳なり」とその行動を肯定するような風潮もあったようです。

2019年3月12日火曜日

次の本が出来るまで その124

蜀山人壁書


太田覃(おおたたん)は号南畝といい、蜀山人といい、又の名を寝惚子とも竹羅山人とも呼び、狂歌狂詩に巧みなことで世に知られている。


※このジャンルの文芸がなくなったのは本当に残念だと思う。

2019年3月8日金曜日

次の本が出来るまで その123

考察


アリストテレスによれば、ヒュパンスの河辺にはたった一日しか生きない小動物がいるという。朝の八時に死ぬのは若死にで、夕べの五時に死ぬのは老衰の死である。こんな束の間のことを幸だ不幸だと考えるのを見て笑わないものがあるだろうか。
われわれの一生も、これを永遠に比べるならば、あるいは山や河や星や樹木やある動物に比べてさえも、やはり笑うべきことである。

※人生が短いのは分かる。

2019年2月23日土曜日

次の本が出来るまで その121

俳諧の妙


服部元好という医者の家が火事で全焼した時、誰かが 

「お医者さん家の黒焼何になる」


と茶化すと、元好は澄まして

「大工左官の腹薬なり」


と応えたという。

※落語のルーツがこのあたりに。

2019年2月18日月曜日

ボードレール『パリの憂鬱』

『パリの憂鬱』ボードレール


ボードレールは18世紀のフランスの詩人で「近代詩の父」といわれています。『パリの憂鬱』は散文詩と呼ばれる新たなジャンルを切り拓いたもので、韻律も脚韻もない散文形式で近代人の孤独と憂鬱を語り、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメら後の詩人たちに大きな影響を与えました。


※カバー写真はもう少しセピア色の予定だったのですが…。

2019年2月8日金曜日

次の本が出来るまで その120

正常とは


正常というものは、稀にしか見いだされないものである。正常とは理想である。
それは人間の性格の平均から、人がつくりだした絵そらごとであって、そうした性格のすべてを、一人の人間に見いだすことは期待できるものではない。
利己主義と親切、理想主義と好色、虚栄、内気、無欲、勇気、怠惰、臆病、頑固、猜疑など、それらがすべて一人の人間の中に共存していて、もっともらしい調和をなしているのである。


パンドラの箱


あの悪魔をつめこんだパンドラの箱の中に、「希望」を加えた事について、神は定めし忍び笑っていられることだろう。あれが中でも一番残忍な悪魔であることはちゃんとご存知なのだ。つまり「希望」とは、惨めさを最後まで耐え忍ぶように、人類を誘(そび)いてゆくものなのである。

※S・モーム『作家の手帳』より。皮肉屋のモームらしい言葉。

2019年2月1日金曜日

次の本が出来るまで その119

餓死の者の発句



※悲惨を極めた天保の大飢饉。決して過去の話ではない。

2019年1月27日日曜日

次の本が出来るまで その118

架空の楽園



 人生に全く満足することに失敗すると、人は想像によってその償いをする。


 どうせ駄目だろうというので、いろいろの人間本来の欲望を断つことになるのだが、しかし人間は大かた断念しきれるものではない。


 それで、名誉欲、権勢欲、愛欲がさまたげられると、幻想を追うことで自分をあざむくのである。現実に背を向け、そうして故障や邪魔なしに欲望を満たすことのできる架空の楽園へ行く。


 そしてこのような心的作用が、非常に価値のあるものだと云って見栄を張る。想像を駆使することが、人間の最も崇高な働きであるように思い込む。


 それでもやはり想像することは即ち失敗することなのだ。


 つまり実在に出あうのに敗れたことの承認だからである。


※S・モーム『作家の手帳』の中の一文。「架空の楽園」という言葉が気になったので。

2019年1月18日金曜日

小泉八雲『人形の墓』

『人形の墓』小泉八雲


 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は記者として来日以来、日本の風習や伝統行事を見聞し、日本人のこころに根ざす礼節、祖先崇拝、宿命観などを研究した作家です。
「人形の墓」は彼が松江に居た頃、稲という十一歳の少女から聞いた話です。少女の両親は相次いで病気で亡くなり、祖母と幼い子供三人が残されました。しばらくは十九になる長男が働いて家計を支えていましたが、その長男も病に倒れてしまいました…。


※表紙は文中にでてくる少女の着物(羽織)をイメージしました。

2019年1月9日水曜日

次の本が出来るまで その117

藝が身を助ける


錦花翁隆志(きんかおうりゅうし)という俳人の句に


 藝が身を助くる程の不仕合 げいがみを たすくるほどの ふしあわせ


という有名な句がある。何をしても上手くいかず、不運つづきで、その日を暮らすことも難しくなった時、むかし習い覚えた三味線や唄を人前で披露して、何とか口を糊する身になったことを句にしたもので、確かに名句であろう。


 さらに、藝が身を助けて大きな幸運に恵まれた人もいる。私の家に出入りする髪結の政吉が云うには、天保の頃、湯島天神脇に小濱何某という御旗本が居た。この家の門番の伝蔵は生来風流を好み、常に欠陶(かけとっくり)を張番所の柱にかけ、花を抛入れて楽しむという男だった。


 ある日、小石川水道町に住む一泉という花の師匠が、この門番所の挿花を見て、門番に似合わぬ風情に感じいり、そこの主人に、まったく野子(やし)の及ぶ所にあらず、と伝えた。主人は驚き、早速伝蔵を呼びつけると、伝蔵は肝をつぶし、何か大きな過ちをしでかしたのだろうかと青ざめた顔でやって来た。


 主人は「お前は挿花を好むようだな、さてさて感心なやつじゃ。一度ここで花を活けてみよ」というと、伝蔵は「めっそうもございません」とひれ伏して辞退したが許されず、そのまま花を活けて差上げたところ、天晴(あっぱれ)の挿し方にみんなが感心したという。


 その後伝蔵は一泉に推挙されて侍に取立てられ、花の師匠となり、一泉も弟子として学ぶことになったという。これは花を活ける技で侍となっただけでなく、師と仰がれる身になったことも、藝の徳であるといえよう。


 これらを見ても、子供の頃に何かしらの技芸を習い身につけて置くべきであろう。今の自分のように老い朽ちてからではどうしようもない。幼き人々は、かならず月日を無駄に過ごす事のないよう、いらざる老いの繰り言ながら記す。    『宮川舎漫筆』より


野子=田舎者

私はたった2か月でソロバン塾を辞めた。

2019年1月1日火曜日

次の本が出来るまで その115

壽算 


謝肇〓〈さんずいへんに制〉(シャチュウセイ)が

  人壽不過百歳、数之終也 
    人の寿命は百歳に過ぎず 数のおわりなり
 
  故過百二十不死、謂之失帰之妖
    ゆえに百二十歳を過ぎても死なないとき これを失帰の妖という

 と云っているが、昔にも百五六十歳、二百歳に至るものが居たという記録がある。『愚管鈔』の皇帝年代記、仁徳天皇のくだりに「大臣の竹内宿彌は六代御後見(おんうしろみ)にて二百八十余年を経たり」とある。(中略)

 最近では志賀随應ほどの長寿はいないようだが、どうもはっきりしない。
 一説に随應は、天正四(1576年)丙子の年、豊後の国に生まれる。志賀氏、名は義則、藤恕軒(とうじょけん)と号す。江戸に来て、新橋のほとりに住み、また赤坂に居たこともある。医師を業とし、そのかたわら神書を見ることを好み、閑な時は、釣を楽しむ。竹田候より月俸を受けるのを辞して江戸を去り、上野の国(群馬県)に赴いた。時に一百三十歳、その終焉の年は不明である。

 昔たまたま其蜩菴(きちょうあん)の『翁草』を見ていると、生島幽軒老人の七十の算賀に来た七人の叟(おきな)の中に志賀随應もいた、と書いてある。
 また随應の墨跡は、好事家に賞翫(しょうがん)されるため偽筆も多く、その手蹟のよいものと、詩句に趣あるものはほぼ贋作である。私が見たものの中で梅龍園主人の所蔵「長生」は間違いなく真跡である。影写して下に掲げる。(下図)


 百有余歳と記した、その心は不明だが、年を隠すのは老人の情でもあり、ここに百何十何歳とは書かないものであろうと考える。

 この老人の墓は江戸愛宕下(あたごした)、天徳寺の不断院にあり、墓誌には云々と、かねて聞いていたのを頼りに、ある日興継(おきつぐ)を伴い不断院におもむき、その墓所を半日あまり探した。しかし見つからず、困り果て、お布施を包み寺僧に頼んで過去帳を見せてもらったら、享保十五(1730年)庚戌の年、と題した戒名の中に、

  真月院諦念随翁居士   志賀随翁
       六月十六日 施主 上野恕信

とあった。
 私が、この墓は今もあるかと問うと、寺僧も知らず、今はその施主も絶えているので、総墓(共同墓)の中にあるかも知れない、と云う。さっそく寺門を出て総墓所によじ登り、興継と共に、聞いた場所はもとより、周辺を見て廻ったが、ここでも見つからず、興継を寺に遣って、寺僧に案内を乞うた。道人が来て、わが寺の諸檀の墓所はここですと指したところを、ひとつひとつくまなく調べたが、そこにも墓はなかった。思うに施主がなくなり、墓石も共に壊れたのだろう、とやむなくあきらめた。卯月の長い一日を、はかなくここで過ごしてしまったことが少し悔やまれる。

 この寺の過去帳に、その戒名があるのなら、最近まで彼の墓はあったのだろう。墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左の方に施主上野恕信と彫られていると聞いていたし、干支がないだけで年月も寺の過去帳と同じである。念のため寺僧に、施主上野氏の事、また過去帳に戒名俗名ともに、「随應」でなく「随翁」と書かれた理由を尋ねたが、はっきりとした答えは得られなかった。寺僧が云うには、寺により在世の名号を戒名に用いる事を許さないこともあるという。麻布二本榎、常行寺にある俳諧師其角の墓誌に「喜覚」と記録するように、随應の「應」を、「翁」の字にかえたのかもしれない。

 一般に言われるように、随應が上野の国に歿したならば、この墓は、その年忌の折などに、江戸にいる親族、或いは由縁のものが建てたと考えられる。しかし、寺の過去帳から推しはかると、享保十五(1730年)六月十六日は、その忌日であり、老人の生れた天正四(1576年)丙子の年より、亨保十五(1730年)庚辰の年まで数えれば一百五十五年となり、これより、百五十五歳で亡くなったといっても、よりどころがある。思うに、墓石の施主、上野氏が何処の人であるかは知らないが、老後の扶助を受けていた随應が、上野家で亡くなったことを誤って、上野の国に歿すというふうに伝えられたのかもしれない。これはあくまで私の推量の説であり、ここに疑問を述べて、後考を俟つ。
                             『玄同放言』より意訳
※失帰の妖というのか。

2018年12月25日火曜日

次の本が出来るまで その114

司馬江漢「春波楼筆記」より いいかげん現代訳


 私はいま七十いくつになり、若いころをふり返り感慨に耽ることがある。私は若いころより、志をたて、何か一芸をもって名を為し、死んだあとも名前が残ることを望み、一流の刀工になろうと思っていた。刀は何より武門の第一の器であり、これを造ることで後代に残し、名を後世に伝えることができると思っていたのである。

 しかし天下は治まり、戦がなくなると、人を斬る道具であり、凶器である刀は装飾品となり、武士は名高い古刀を武門の装いとするようになった。目貫、縁頭など刀脇差の飾りを愛玩する者も増え、中でも後藤家は後藤彫として名を馳せた。また宗眠、宗与、躬卜(みぼく)などが登場し人物虫魚に至るまで、工を競い合った。宗眠は、英一蝶の下絵を使い片切彫という毛彫で一流を工夫した。その二代目宗与もこれを継承し妙手であった。絵にたとえて言えば、後藤は高彫で、金銀その他赤銅火色四分一色々にまじえて形とし、これ極彩色のごとし。躬卜は、肉のある彫にして薄彩色のごとし。宗眠、宗与は墨絵のごとし。おのおの一流を工夫して一家をなしている。私はこの上の工夫がなければ名を得る事は難しい。ここにおいてきっぱりと諦めることにした。(後略)


Sword Guard (Tsuba)
Date:ca. 1615–1868
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold

Sword Guard (Tsuba)
Date:18th century
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold, copper

Sword Guard (Tsuba)
Date:18th century
Culture:Japanese
Medium:Copper-gold alloy (shakudō), gold, copper, silver

Sword Guard (Tsuba)
Date:19th century
Culture:Japanese
Medium:Iron, gold, copper

※参考までにメトロポリタン美術館の収蔵品から鍔の写真を掲載します。

2018年12月19日水曜日

次の本が出来るまで その113

昔の刑罰 五罪


五罪(あるいは五刑)とは笞杖徒流死(ちじょうづるし)をいう。


笞罪は十より五十回まで、杖罪は六十より百回まで。
笞罪も杖罪もどちらも杖で打つ刑。打つところは臀。昔は背中を打つこともあったが唐大宗の明堂醫経により改められた。


徒罪は五等あって、一年、一年半、二年、二年半、三年。徒は徒隷として、奴としてつかう事。五畿内の徒は京都へ送り、その他はその国々で一屋敷にまとめ、男は身の程に使い、女は裁縫はもとより米を搗かせたり雑用に使う。年限が来たら解放される。


流罪は近、中、遠の三等がある。
近流は越前(京より三百十五里)、安藝(京より四百九十里)、中流は信濃、伊予(京より五百六十里)、遠流は伊豆(京より七百七十里)、安房(千百九十里)、常陸(千五百七十五里)、佐渡(千三百ニ十五里)、隠岐(九百十里)、土佐(千ニ百ニ十五里)へ送られる。


死罪は絞と斬の二等で、頸を絞(しめ)るを絞罪といい、頸を斬るを斬罪という。絞は軽く斬は重い。なぜかというと、絞罪は、立春より秋分までの間は行わないことになっていて、斬罪にあたる重科人は秋分を待たずして首を刎ねるので、恩赦にあう可能性は少ないが、絞罪は秋分を待つあいだに恩赦にあえば、罪が軽くなり、徒流などに減刑されることもありうるからである。

                               「嚶々筆話」より


※なるほどね。

2018年12月8日土曜日

宇野千代『夜』

『夜』宇野千代


「夜」は現代短編小説全集(大正14年・文芸日本社発行)より選びました。宇野千代さんについてはよく知りませんが、恋多き女性だったようですね。「夜」は男女の話ではありません。飲んだくれの父親が帰ってこない。夜更けに母と娘は寝床に入る。土間の戸には燕のために丸い穴が空けてある。今夜は月夜らしい。丸い穴から光が差し込んでくる。父はどこへ行ったのだろう。……そんな話です。


※表紙は障子をイメージしてつくりました。

2018年12月3日月曜日

次の本が出来るまで その112

数えたら50冊


50冊になりました。覚えとしてリストを掲載します。感慨にふけることも、分析することもありません。そんな値打ちの無いことは本人が一番分かっていますから。ニ、三人の友人と自分のために、飽きるまでこっそりと続けようと思っています。

2018年11月22日木曜日

次の本が出来るまで その111

也有の老人教訓



▶人目見苦しきを知るべし

皺はよる ふすべは出来る 背は屈む あたまははげる 毛は白うなる


▶人の数ならぬを知るべし

手は震ふ 足はよろつく 歯はぬける 耳は聞えず 目はうとうなる


▶人のむさがるを知るべし

よどたらす 目汁はたらす はなたらす とりはずしては 小便ももる


▶人のかたはら痛く聞きにくきもの也

又しても 同じ咄に 子ふいてう(吹聴)達者じまんに 若きしゃれごと


▶かかる身の上をもわきまへず

くどうなる 気短になる 愚痴になる 思ひつくこと 皆ふるうなる


聞きたがる 死にともながる さびしがる 出交りたがる 世話やきたがる


                         狂歌集「行々子」より


横井也有(よこいやゆう)江戸時代中期の俳人。狂歌、和歌、書画、平家琵琶、
謡曲、武道などにも通暁していた。俳文集「鶉衣」は有名。


※てっきり自分の事だと思った。

2018年11月9日金曜日

太宰治『朝』

『朝』太宰治


自宅では仕事に集中できない太宰は、知人の家の部屋を昼間だけ借りています。そこはその家の娘の部屋でした。或る夜、飲み過ぎて家へ帰れなくなり千鳥足でその部屋を訪ねます。「泊めてくれ、すぐ寝るから…」。さてどうなることやら。 



※若いころ、太宰治に影響を受けた人は少なくないのでは…。小生もそのひとりです。