2023年7月18日火曜日

次の本が出来るまで その281

 暗示


 ある時、山沿いの二また道を、若い男と若い女とが、どちらも同じ方向をさして歩いていたことがあった。

 二また道の間隔は段々せばめられて、やがて一筋道となった。見ず知らずの二人は、一緒に連れ立って歩かなければならなくなった。

 若い男は、背には空になった水桶をかつぎ、左の手には鶏をぶら提げ、右の手には杖を持ちながら、一頭の山羊をひっぱっていた。

 道が薄暗い渓谷に入って来ると、女は気づかわしそうに言葉をかけた。

『わたし何だか心配でたまらなくなったわ。こんな寂しい渓谷を、あなたとたった二人で連れ立って歩いていて、もしあなたが力づくで接吻でもなすったら、どうしようかしら。ほんとうに困ってしまうのよ。』

『えっ、僕が力づくであなたに接吻するんですって。』

 男は思いがけない言いがかりに、腹立ちと可笑しさのごっちゃになった表情をした。

『馬鹿をいうものじゃありません。僕はご覧の通り、こんなに大きな水桶を背負って、片手には鶏をぶら提げ、片手には杖をついて、おまけに山羊をひっぱってるじゃありませんか。まるで手足を縛られたも同然の僕に、そんな真似が出来ようはずがありませんよ。』

『それはそうでしょうけど……。』

 女はまだ気が許せなさそうにいった。

『でも、もしかあなたが、その杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋いで、それから背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せてさえおけば、いくら私が嫌がったって、力づくで接吻すること位出来るじゃありませんか。』

『そんなことなんか、僕考えてみたこともありません。』

 男は険しい眼つきで、きっと女の顔を睨んだが、ふとその赤い唇が眼につくと、何だか気の利いたことの言える唇だなと思った。

 二人は連れ立って、薄暗い樹陰の小路に入って行った。人通りの全く絶えたあたりに来ると、男は女が言ったように、杖を地べたに突きさし、それに山羊を繋ぎ、背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せた。そして女の肩を捉えて、無理強いに接吻した。


※薄田泣菫『草木虫魚』より。偶然キスの話が続いてしまいました。