2023年10月16日月曜日

次の本が出来るまで その289

 S・モーム『作家の手帖』(3)


これで最後にします。


 僕はロンドンから着いたばかりだった。食堂へはいって行くと、年取った伯母がテーブルに向って仕事をしている姿が見えた。僕は近づいてその肩に手をかけた。伯母はちょっと叫び声を立てたが、僕だと分ると飛び上り、やせた腕を僕の頸へまわしてキスした。
 「まあ、まあ、お前」と彼女が言った。「もうきっとお前には逢えまいと思っていたんだよ」それから吐息して年老いた傷ましい頭を僕の胸にもたせかけた。
 「とてもからだがいけなくてね、ウイリー。もうじき死ぬのが分るよ。冬はとても越せないよ。伯父さまを先に見送りたいものと思ってたけどね。それだと、わたしの死ぬのを、お悲しみにならずにすむんだのにね」
 僕の眼に涙があふれ、頬を伝って流れ落ちた。それからやっと、僕は夢を見ていたことに気付いた。伯母は二年ほど前に死んでいた。しかも、伯母がまさに死の美しい眠りに入ろうとする直前に、伯父は再婚していた。 


                    ❖


 彼は成功した法律家であったが、その彼が自殺したので家人も友人たちもびっくりした。
 快活な精力旺盛な男で、彼にかぎってそんなことはよもやあるまいと思われていたからだ。
 彼は人生を享楽した。賤しい生れだが、戦争中の勲功によって従男爵に叙せられていた。彼は一人息子を大事にし、また可愛がった。
 この息子は自分の位階を継ぎ、自分の職業を継ぎ、国会へ出て名を挙げてくれるだろう。
 誰も自殺の原因を推測できなかった。彼は過失死と見せるような死に方をしていたが、全く彼にかかるほんの些細な一事さえ無かったら、過失死と考えざるを得ない位である。
 彼の妻が、相当彼の心痛の種だったことはたしかであった。彼女は月経閉止期で、すこし脳へ来ていた。精神病院へ入れるほどの気のふれ方ではないにしろ、たしかに正気ではなかった。はげしい憂鬱症にかかっていた。
 皆は彼女に、夫が自殺したとは云わず、ただ自動車事故で死んだと報せた。彼女は案外平気であった。それを伝える役目は彼女の主治医が果たしていた。
 「まあ、ありがたいこと。いい時にあのひとに話しておいたものですわ」と彼女は云った。「もし云っておかなかったら、私、一生心が休まらないところでしたわ」
 医者はどういう意味かと尋ねた。一と時経ってから彼女の語ったことは、彼があれほど溺愛していた息子、彼のすべての希望が託されていた息子、その息子が彼の子ではないと、夫に打ち明けたばかりであったというのだ。

※あらすじだけですが、プロフェッショナル作家のストーリー性が感じられます。
下のような表紙を考えていました。いつか作るかも知れません。