2015年5月21日木曜日

『ごぜくどき 地震の身の上』


『ごぜくどき 地震の身の上』です。
「瞽女口説き(ごぜくどき)」とは瞽女と呼ばれる女性の盲人芸能者が三味線を手に、その土地の風俗や出来事などを弾き語りしたり、独特の節回しで語る歌物語のことです。洋楽でいうならトーキング・ブルース、あるいはトーキング・バラッドでしょうか。瞽女は新潟県を中心に北陸・東北地方など豪雪地帯の村落を巡業し、娯楽のすくない農村地域では歓迎されました。
「地震の身の上」は今からおよそ190年前、文政11年(1828)11月12日朝、新潟県三条市周辺で発生した三条地震を唄ったものです。この地震の震源地は栄町(現三条市)芹山付近で、三条、燕、見附、今町、与板などの家屋はほとんど全壊したといわれています。作者は加茂矢立新田の里正・斎藤真幸という人で、地震の翌年に書き瞽女口説きとして刊行しました。その筆は辛辣で、大災害の原因は社会の退廃にあると世間の風潮に警告を発しています。

新しい「地震の身の上」が作られないことを願うばかりです。

2015年5月19日火曜日

『夢十夜』より第三夜 夏目漱石



「こんな夢を見た…」という書き出しで始まる『夢十夜』です。
夏目漱石ついてはいまさらいうまでもありません。この小説は明治41年7月25日から8月5日まで『朝日新聞』に連載されました。漱石としてはめずらしい幻想的な作品です。その第三夜は子どもを背負って歩く「自分」と背中の子どもとの会話が中心の短編です。精神分析の専門家が喜びそうな話です。わたくしは圓朝の怪談話を聞いているような気になりました。

2015年5月18日月曜日

『尾生の信』 芥川龍之介






芥川龍之介の小品『尾生の信』です。
中国の春秋時代、魯の尾生という男が、橋の下で女と会う約束をして待っているうちに、雨で川が増水してきます。それでも男は女を待ちつづけ、ついにおぼれ死んだという故事から、「固く約束を守ること」また、「ばか正直で、融通のきかない」たとえとして用いられます。
芥川は、何か来るべき不可思議なものばかりを待ち続けている自分には、きっと尾生の魂が宿っているのだろうと語っています。
同じ言葉の繰り返しとカメラ映像のような描写が素敵です。

小説の元となった詩稿を掲載しておきます。

たそがるる渭橋の下に
來む人を尾生ぞ待てる
橋欄ははるかに黒し
そのほとり飛ぶ蝙蝠
いつか來むあはれ明眸

かくてまつ時のあゆみは
さす潮のはやきにも似ず
さ青なる水はしづかに
履(くつ)のへを今こそひたせ
いつか來むあはれ明眸

足ゆ腰ゆ ふとはら
浸々と水は滿つれど
さりやらず尾生が信(まこと)
月しろも今こそせしか
いつか來むあはれ明眸

わざ才(ざえ)をわれとたのみて
いたづらに來む日を待てる
われはげに尾生に似るか
よるべなき「生」の橋下に
いつか來むあはれ明眸


江守徹さんの朗読で聞きたいなあと思いました。

2015年5月17日日曜日

『電車の女』森鷗外


『電車の窓』は森鷗外の小品です。
冬の夕暮れ、停車場で市電を待っていた鷗外の隣で美しい女が同じ電車を待っていました。女は目を伏せ俯向いたまま肩をすぼめていかにも寂しそうでした。気にかかった鷗外は電車内の女を観察します。女の身なりをチェックしかんざしに書いてある文字を読もうとしたり、窓を閉めようとする女に手を貸さず困るようすを見ていたり、そして勝手に「鏡花の女」と名付け、女の不幸な境遇を頭の中でどんどん作り上げていきます。これは作者の妄想が作り上げた小説です。
しかし鷗外に共感する男子は多いはずです。いつの時代も影のある美しい女性は男の眼を引くもの、男たちは電車内で前の席に坐った女性の日常をいろいろ想像していることなど……どうも今回は「鏡花の女」に惑わされてしまったようです。