2022年1月14日金曜日

井伏鱒二『へんろう宿』

 『へんろう宿』井伏鱒二

──バスで寝過ごした私は遍路岬にあるたった一軒の宿屋「へんろう宿  波濤館」に宿泊することになった。この宿は宿屋としてはまったく貧弱であるが、五人も女中がいる。三人のお婆さんと、二人の女の子である。その日の夜中、隣の部屋で、泊りの客とお婆さんが、酒を飲みながら話をしているのが聞こえてきた──

『へんろう宿』は井伏が室戸岬への旅の途中に着想を得て書いた作品だと言われています。実際にこのような宿があったかどうかは不明です。

※YouTubeに朗読の動画があります。興味がある方はお聴きください。

2022年1月10日月曜日

次の本が出来るまで その225

 浪人の話


 天明の春ごろ、ひとり流浪の士が、六、七歳の男の手をひき両国橋にやって来た。

 見るからに粗末な衣服を着ているが、腰には一刀を帯している。男の子は破れた単衣(ひとえ)を着て、春先の寒さに身体を震わせていた。

 二三日食べていないと見え、子は「とと様、ままが食べたい」と訴える様子が、見ていても哀れだった。親は涙ながらに「今に何なりともたべさせん」と、だましつすかしつ来たところ、橋のこなたの店先に、ふかした琉球芋がうず高く積まれていた。それを見て子は「あの芋が食べたい」と泣きだした。

 この憐れな様子を橋ぎわで草履を直す非人が見兼ねて、声をかけた。

「誠に失礼ではございますが、私にも子供がおりますので、そのお子さまのひもじい思いはよくわかります。なにとぞそのお芋を差上げたく存じます。よろしければ食べさせてあげて下さいませ」と、小銭をさし出した。浪人は涙ながらに「さてさて情深きおこころざしかたじけなく存じます。お礼の申しようもございません。そのおこころざしありがたく頂戴いたします」と、すぐさま子供に腹いっぱい芋を食べさせ、その様子を親は涙ながらに眺めると、非人の前にやってきて「ごらんの通り十分に食べさせました。このお礼は死んでも忘れはいたしませぬ」と、涙とともに厚く礼を述べ、もと来た橋の方へ歩き出した。

 二人がちょうど橋の半ばに来た時、浪人は子供を抱えあげるといきなり川へ投げ入れた。人々が驚いている間もなく、自らも川に身を投げた。二人とも溺れ死んだという。不憫というも余りある話である。

                               『宮川舎漫筆』より


絵師:広重


※文章は現代文にしています。