2021年1月18日月曜日

次の本ができるまで その190

 饑渇負(ケカチマケ)


「饑渇負(ケカチマケ)」は京都の医師、橘南谿が弟子の丹生とともに天明六年の春に東北地方を旅したときの記録です。天明三、四年には大飢饉が発生し、その惨状は京都にも聞えていましたが、彼が実際に現地で目にした光景ははるかに悲惨を極めたものでした。


生き残った人の話を聞き書きした、こんなエピソードがあります。

「卯年、饑饉に及び五穀既に尽て、千金にても壱合の米を得る事あたわず、草木の根葉、其外、藁糠、或は犬猫牛馬鼠鼬に至るまで力の及ぶ程は取尽し食ひ尽して、後には道路に行倒れみちみちたる死人の肉を切とり食ふ事に成けるに、是も日久敷饑々て自然に死したる人の肉は既に腐りたる同然にて、其味ひ甚悪敷、活たる人を打殺し食ふは味も美なりければ、弱りたる人は殺し食ふ者多かりし也、此近隣にも家内追々饑死して、親壱人むす子壱人のみになれる時、其父一計策を案じ出し、其隣家に行ていふやう、『扨も御たがひに空腹なる事なり。我家にも既に家内皆々死うせしに、御覧のごとく今は男子壱人のみ残れり。是も殊の外に饑つかれたれば二三日の間には死すべし。とても死ゆく者いたずらに亡んよりは息ある間に打殺して食まんと思へども、さすがに肉親の恩愛、手づから打殺すにしのびず。此ゆへに其許を頼み申なり。我子を打殺して給はらば其御礼には肉半分を贈り申べし』と誠しやかに頼むにぞ、隣家の男大に悦び、『半分の肉をだに給はらばいとやすき事なり』とて、やがて有合けるナタ携へ行て打けるに、さなきだに死せんとせしむす子、只一打にいき絶ぬ。彼頼に行し親、傍に見居て、すかさず隣の男をマサカリにてしたゝかに打。隣家の男も饑つかれたる所なれば、何かは以てたまるべき、其まゝに息絶たり。扨、計策を以て両人の肉を得たれば、早速に弐人ともに料理して塩漬にし置て一月斗を凌げり。近所へは隣家の者饑たる余り此方の子を打殺し食はんとせしゆへに仇を報ぜりと吹聴し、公然として弐人の肉を甘ぜり。近所の者其姦計をにくめども、皆々饑つかれて相たがひに親子兄弟といへども打殺し食ふ時節なれば、誰咎る者もなかりしが、彼男もつゐには饑死し終れり」。

省略して言えばつぎのようなことです。

飢饉により食べられるものはすべて食べつくし、ついには死んだ人の肉をたべるようになった。しかし死人の肉はすぐ腐り味も悪いので、弱った人を殺して食べる人も多くあった。ある父親は、息子がもう長くはなさそうだったので一計を案じた。男は隣の家の男に相談を持ちかけ「息子はもう死にかけている。ここで一思いに殺して食べようと思うが自分の手で我が子を殺すことはさすがにできない。どうだろう、肉の半分をあんたにあげるので、あんたが殺してくれないだろうか。」隣の男は喜んで引受け、さっそくナタを持って男の家に行くと息子を一撃した。その様子を見ていた男は隣の男をマサカリで襲い殺害した。男は二人分の肉を塩漬けにしてそのご一ヶ月ほど生き延びた。男は隣の男が息子を殺したので仕返しをしたとふれまわった。近所の者は男の悪だくみを憎んだが、自分たちも生きるのに精一杯で咎める人はいなかった。男はその後餓死した。


※次に作るつもりでしたが、悲惨な話を本にするのは気が進まなくなり、もう少し明るい気持になれるような題材に変えました。興味のある方は『東西遊記』(東洋文庫)でお読みください。