2024年12月10日火曜日

次の本ができるまで その319

マサオの夜



 「るせえなあ、もう」

 母親の小言が始まるとマサオは、キッチンのドアを力まかせに閉め、玄関から飛びだして行った。

 外は雨が降っている。

 マサオは駐車場に向かって駆け出した。白いテープで区切りがしてあるだけの空地の奥に、白い大型車が停まっている。

 マサオは靴を脱いで運転席に座ると、エンジンをかけた。いきなり大音量でアイドルグループの歌が鳴り響いてきた。

 「くそっ、あのばばあが!」

 マサオはタバコに火を点けながら毒づいた。

 雨が激しくなり、薄暗い街灯の光をモザイク模様に変えていった。



 ……ひと月前まで、助手席にはいつもヨシエが座っていた。後ろの席にある赤いハート型のクッションも、彼女がマサオの誕生日に贈ったものだ。それが先月突然別れることになった。

 いつもならこうして座っていると気持が落着くマサオだったが、今夜は違っていた。

 「もう一度、ヨリを戻したい」

 マサオはヨシエとの楽しい日々を思い出していた。

 初めてのキスは、そうだ、公園の横だった。唇がやわらかくて、髪のいい匂いがしていた。胸に触れるとヨシエは体を固くして両手を握りしめていた。太ももの間に手を入れるとヨシエは少し抵抗した。あのときの湿った感触は忘れられない。マサオはズボンの中が熱くなった。

「今度会ったら、ぜったいヤルぞ!」

 マサオは、矢も盾もたまらなくなり、今すぐ会いに行こうと決めた。

 なぜか今夜はヨシエが自分の来るのを待っているような気がした。……



 雨はますます強くなってきた。

 ワイパーを最速にしても、一瞬後には前が見えなくなる。すれ違う車のヘッドライトが宙に浮いたまま通り過ぎていく。

 信号が黄色になったのが見えた。マサオはまっすぐ突っ込んで行った。

 突然、眼の前に大きなライトがあらわれた。

 大型トラックのバンパーが目の前にあった。

 夢中でブレーキを踏みハンドルを左に切った。車がヨコに傾く。

「ウソだ、ウソだ」頭のどこかで声がした。

「あああああああっ」

 声が口から出る前に、車はトラックに激突していた。



 雨はいまも激しく降っている。

 道路に投げ出されたマサオは、流れ出た血が側溝に吸い込まれていくのを見ていた。

 遠くでサイレンの音がしている。

 薄らいでいく意識の中で、マサオは何かを思い出そうとしていた。

「オレはどこへ行くつもりだったんかなぁ」

 頭の中は靄がかかったようにぼんやりして、もはや自分が誰なのかも分からなかった。



 玄関のドアが風でガタガタ震えた。

「マサオかい?」

 母親は台所のテーブルに頬杖をつき、テレビの画面から目を離さず独り言のように言った。

 雨はまだ降り続いている。


※つまらない話はこれで最後にします。お疲れさまでした。