2023年9月28日木曜日

次の本が出来るまで その288

 S・モーム『作家の手帖』


S・モームは好きな作家の一人です。おなじみの濃紺と薄緑の文庫本の中に『作家の手帖』という一冊があります。作家が興味を持った人や事件を書き留めたいわばネタ帳です。前にもいくつか紹介しましたが、今回も2作紹介します。


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 飢えに追われたあるイタリア人がニューヨークに来て、手続きをした上で街路の仕事にありついた。
 彼はイタリアに残してきた妻に恋恋とした。自分の甥が妻と一緒に寝ているという噂がつたわってきた。
 彼はカッとした。だがイタリアへ帰る金がないので、甥に手紙をやり、ここではよい賃金がとれるからニューヨークへ来いと云ってやった。
 甥はやってきた。彼が到着した夜、夫はその甥を殺した。彼は検挙された。
 妻がその裁判へ呼ばれた。彼女は夫を救いたいために虚偽の申し立てをした。その甥が自分の恋人だったのだと。
 男は入獄の判決を受けたが、そう長くならないうちに仮出獄の許可を得た。妻は彼を待っていた。
 彼には、妻が自分にたいして何も不義をしなかったのだと分ったのであったが、しかし彼女があのような申し立てをしたについて、いかにもそれが事実だったように、彼の名誉心の上に重くのしかかった。それが苦痛の種になり、彼を辱めた。
 彼は妻をひどく責めつづけた。彼女にはどうする術もなく、しかも彼女は彼を愛していたために、ついに絶望して自分を殺してほしいと云った。
 彼は彼女の心臓へナイフを突きさした。
 名誉心が満たされた。


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 彼等は二人とももう死んでしまった。
 彼等は兄弟であった。兄は画家、弟は医者。兄は自分が天才だと信じていた。
 彼は尊大で短気で見栄坊で、そして弟を俗物の感傷家だと軽蔑した。
 しかし彼には現実に一文の収入もなく、弟からもらうお金が無かったら飢えるにきまっていた。奇妙なのは、態度や要望が熊のように無骨なのに、彼の描くものと云えば美々しい絵なのである。
 時々彼が個展を開くときまって二枚だけは売れる。それ以上には決して売れなかった。
 遂に弟は、兄が結局天才ではなく二流画家にすぎないと悟りはじめた。結局彼が払ってきた犠牲が彼には手痛かった。彼はこの発見を黙って自分の胸に秘めた。
 そのうち彼は死んで、所有品はすべて兄に残された。兄は弟の家から、過去二十五年間に誰か知らぬ買手へ売った絵を全部見つけ出した。
 最初彼は、理解できなかった。そのわけをとくと考えた末にやっと解釈がついた。
 ──あのこすからい弟め、一と儲けしようとたくらんでいたんだな。

※これらを輯めて次の本にしようと思っていましたが、気が変わりました。ここで何回かに分けて掲載します。