余は便所に立つ。梯子段を降りる。いつのまにやら酔うたと見えてひょろひょろとする。
突然後ろから、「君来てるのかい」と遠慮のない声がする。振り向くと、一念がそこにいる。
一念は、余が昨日まで宿泊していた比叡山の宿坊で身の回りの世話をしていた叡山の小僧である。身寄りのない一念を引き取った伯母が祇園町に居ることは話に聞いて居たが、まさかこのお茶屋とは知らなかった。しかも、芸妓の三千歳とは旧知の仲のようである。余は自分の座敷に一念を招きいれた。
余が一念を連れて来たのを見てお花は唄いながらニヤリと笑う。喜千福も玉喜久もニコリとする。お艶もホホホと笑う。よく見ると余の顔を見て笑うのではなく、三千歳と一念の顔を見くらべて笑うのだ。
「一念はん、おいなはったン、旦那はん知っといるの」
と三千歳は一念を小手招きしてその傍に坐らせる。一念も大人しくその傍に坐る。
「旦那はん、あんたはんどっからそのご夫婦連れといやしたの」
とお艶がいう。
「何これご夫婦なのかい」
と余は驚いて二人を見る。
「あたい一念はんに惚れてるのどっせ。皆でお笑いやす。お笑いたてかまへん。ナァそやおへんか一念はん」
と三千歳は可愛い口をむっと閉じて一座を見る。
「えらいおのろけ、かなわんな」
とお花は撥(ばち)で空を煽(あお)ぐ。一念は余のノートを取り上げて、
「またこんな事かいてるナ。『ウーンと首』って君何のこと。『きといた』って君何のこと」
「きとおいやしたという事をそういいますがな」
と三千歳は美しい顔を一念にすりつけるようにしてノートを覗き込む。
「さっきもいろいろ書いといやした。この画けったいな画やおへんか」
「下手な画だねえ、これ誰を書いたのかい。三千歳さんかい」
「喜千福はんどすがナ、旦那はん喜千福はんが好きやさかいお書きやしたのどすやろ。何どすその画は。大きな頭の坊さんやこと。それも旦那はんがお書きやしたんか。そうか一念はんか。そうかそれが横川(よかわ)の和尚(おっ)さんかァ、横川の和尚さんそないに頭大きいのン、耳もそないに大きいのン、いやらしやの。「コノ耳ウゴク」ほんまに耳が動くのン、けったいなこと、松勇はん、横川の坊(ぼん)さんの耳が動くて。けったいえないか」
「けったいえなあ。一念はんほんまに動くのか。そうか、妙な耳えなあ」
「一念はん。尋常卒業おしたんか」
「したョ。三千歳サンは」
「しました。去年。一念はんは」
「僕も去年」
「そうか同じやな、一念はんは優等(ゆうとう)か」
「僕は一番だったよ。すっかり甲だったよ」
「そうか、おおえら」
「三千歳サンは」
「一年の時はお尻から三番やったんが、二年からほんまに四番になって、卒業する時もやっぱり四番どした、乙が一つあったん」
「何が乙だったの」
「体操」
「三千歳サン、こういう字知ってるか」
「横河首楞厳院(しゅりょうごんいん)の楞(ごん)の字だよ」
「そんな坊(ぼん)さんのこと知りますもんか。ソンナラ一念はんこういう字知っといるか」
「そんな変梃(へんてこ)な字知るかい」
「■(女筆で詣らせ候という合字)という字どすがな」
「そんな芸者の事なんか知ってたまるかい。それならこういう字よめるかい」
「むつかしい字えな。知りまへん」
「蘇悉地経(そしつちきょう)といってね三部経の一つだョ」
「そんなら一念はんこういう字知っといるか。書いてしまうまで見んと置きや」
と長い袖でノートを隠すようにして何やら書く。花櫛が灯に光って美しい。
「さあお見。これ何という字どす」
「馬鹿だナァ。へのへのなんか書きやァがった」
「君たちは僕のノートをオモチャにするんだナ。よろしい。それを横川の和尚サンに送って一念は嫁さんがあって二人でこんないたずらをしました、とそういってやるよ。いいかい」
「いいやい。間抜け」
「一念はんのことお告げやしたらひどい目に合わせまっせ。今度お出やしたら殺したげまっせ」
「こわいこと。旦那はんこわいこっちゃおへんか。三千歳はんに殺されたら痛い事どすやろ」
「赤い血が出ないで白い血が出るかも知れない」
「なんぼなとおなぶりやす。ナァ一念はん二人でひどい目に合わしたげまほナァ」
(中略)
しばらくすると下から仲居のみねが、
「一念はん。伯母はんが迎えに来やはりましたえ。早うお帰り」
一念が帰ったあと、
「お父っあんもお母はんも無いのやてな。可哀相やおへんか。どうして横川みたいな淋しい所へ伯母はんがやりはったんやろ」
と三千歳は沈んでいる。
横川の夜は更けにくかったが祇園の夜は更けやすい。
「ハーーイーー」
という子供衆の長い返辞が楼中に響きわたって聞こえる。(終)
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