2020年5月12日火曜日

次の本が出来るまで その163

無題


『寺田寅彦全集』第六巻(昭和二十五年、岩波書店)より短文を掲載します。

 大学の構内を歩いて居た。
 病院の方から、子供をおぶつた男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、何といふ皮膚病だか、葡萄位の大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(ぞくせい)して居て、見るもおぞましく、身の毛がよだつやうな心地がした。
 背中の子供は、やつと三つか四つの可愛い女の児であつたが、世にもうらゝかな顔をして、此の恐ろしい男の背にすがつて居た。
 さうして「お父ちやん」と呼び掛けては、何かしら片言で話して居る。
 その懐かしさうな声を聞いたときに、私は、急に何者かゞ胸の中で溶けて流れるやうな心持がした。(大正十二年三月、渋柿)


※ありますね、こんな事。

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