『暦物語』 ヨハン・ペーター・ヘーベル
『暦物語』より「思いがけぬ再会」「恐ろしい事件が平凡な肉屋の犬によってあばかれた話」の二作を選びました。『暦物語』とはカレンダーに添える短い挿話や教訓話のことで、編集を担当したヘーベルは多くの物語を作りました。二百年も前のことです。彼の作った話は機知とユーモアに富み、現在も愛読されているということです。
『暦物語』より「思いがけぬ再会」「恐ろしい事件が平凡な肉屋の犬によってあばかれた話」の二作を選びました。『暦物語』とはカレンダーに添える短い挿話や教訓話のことで、編集を担当したヘーベルは多くの物語を作りました。二百年も前のことです。彼の作った話は機知とユーモアに富み、現在も愛読されているということです。
Arthur Halliwell Donovan
もしプラトニツク・ラヴと云ふものがあつたら、自分は必人間より馬に惚れたのに相違ない。
*
幸福とは幸福を問題にしない時を云ふ。
*
藝術の境に未成品はない。あればそれは下等な完成品である。
*
不幸にして自分は、眞面目を標榜する程不眞面目にはなり得ない。
*
如何にして年をとらうか──これが人間に與へられた最大の問題である。
*
運命は自由意志の中にある。
*
彈丸に中つて死ぬのと、餓死するのと、どちらが好いか。それはまだよく考へた上でないと、きめられない。
*
戰ひたくないと思つたら、やはり戰ふ外はない。たとひそれが敵國に對してでなくとも。
*
最大の奇蹟は言語である。
羽賀宅阿譯
※ご存知の方も多いだろうが、これは芥川作のパロディでタイトルの「Lies in Scarlet」は「真っ赤な嘘」という意味らしい。作者のAuthur 何とかももちろん空想の人物で、訳者の羽賀宅阿は逆から読むとあくたがわになる。
五月三日、天気は快晴、近所の金戒光明寺の墓地へ行きました。人もほとんどいません。気の向くまま、墓石に刻まれた名前や没年を眺めて歩きまわりました。隣の真如堂の墓地へも行きました。知らない人から見れば怪しい老人です。ここの墓地はとにかく広く、静かで心休まるところです。
下手な写真を掲載しておきます。
『ヘンリ・ライクロフトの私記』より
私は散歩のおりにはいつも道を折れていかにも田舎じみた教会墓地の中を通ることにしている。都会の墓地は不快なものだが、それとは逆にこの鄙びた墓所は魅惑的なものだ。墓石に刻まれた名前を読み、ここに静かに眠っている人々にとって、人生の辛酸も苦悩もすぎさったのだと考えると、深い慰めを感じる。私には少しの悲しみの情もわいてはこない。「某ココニ眠ル」という墓碑銘にまさる頌詞(しょうし)がほかにあるであろうか。死の威厳にまさる威厳はない。(中略)
この樹蔭の静寂の中で、死者たちは、まだこの世に残るべく運命づけられている者に向かって次のような励ましの言葉をささやいているようにみえる。「我らのあるごとく、汝もかくなるべし。されば見よ、我らの静寂を」と。
※墓マイラーというらしい。
ジェフリー・アーチャー『十四の嘘と真実』の最初のページに載っていた短かい話。
死神は語る
バグダッドに住む一人の商人が、召使いを市場へ買物に行かせた。しばらくすると召使いが真っ青な顔をして震えながら戻り、主人に報告した。「だんな様、今しがた市場の人混みのなかである女と体がぶつかり、振りかえってみたところその女は死神でした。女はわたしを見て脅かすような身振りをしたのです。どうか馬を一頭お貸しください。この町から逃げだして死の運命からのがれたいのです。サマラの町までいけば死神に見つからずにすむでしょう」
商人は馬を貸してやり、召使いは馬の背に跨(またが)って脇腹(わきばら)に拍車をくれ、全速力で町から逃げだした。
それから間もなく、商人が市場へ行くと死神が人混みのなかに立っていたので、彼は近づいて行って話しかけた。「今朝わが家の召使いと会ったとき、脅かすような身ぶりをしたのはなぜですか?」
「あれは脅かすような身ぶりではありません」と、死神は答えた。「わたしはただ驚いただけなんです。じつは、今夜サマラで彼と会うことになっているので、バグダッドにいるのを見てびっくりしたんですよ」
世知辛い世の中です。しばし欲得に関係のない話でご機嫌を伺います。
盂蘭盆(北条民雄)門づけ(小泉八雲)怪談 女の輪(泉鏡花)一寸怪し(泉鏡花)沼地(芥川龍之介)有間(高浜虚子)餓鬼(菊池寛)黄昏(島崎藤村)その女と金(宇野千代)原爆被災時のノート(原民喜)大地炎上(マルセル・シュウオッブ)化粧(神西清)
ラジオなどで聴くえらい官吏などの講演の口調は一般に妙に親しみのない鹿爪らしい切口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛込んで来るようなものが少ない。
或会議の席上で或長官が或報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを思い出した。
長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句は分かってもその内容は実はあんまり身に沁みて居ないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生れるのではないかという気がした。
これに反して、文士でも芸術家乃至芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底の方に何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
空腹は中々隠せないものらしい。
(寺田寅彦全集 第六巻)より
※すぐにあの顔が浮かんできた。
『有難う』は掌編小説をまとめた作品集『掌の小説』の中の一篇です。1936年には映画化もされました。三島由紀夫はこの作品を「掌の小説」の中でも優れたもののひとつだとしています。新感覚派といわれた川端康成の簡潔な表現と描写が光る作品です。
※布の表紙の硬さが気に入らず、はじめから作りなおしました。あとの方は和紙の上製本です。
アンリ・ド・レニエが女性について書いた文章を紹介します。その恋愛観、女性観は、フランスのブルジョワ階級の思想傾向を反映していると堀口大學先生は書いておられますから、たぶんそうなんでしょう。
恋愛は一個独立した感情である。それは、友情とも、尊敬とも、やさしさとも、慈愛とも、デリカシーとも関係がない。恋愛は、それ自ら以外のものには関心も持たなければ、また心づきもない。恋愛には、恋愛独特の理屈があり、空想があり、先入主があり、策略がある。恋愛にはまごころの言葉も、精神の言葉も通じない。それはまごころでもなければ、精神でもない。それは恋愛だ。
✻
男は己惚れの強い馬鹿者だ。女がやっと我慢して交際(つきあ)っていてやると、早速もう、自分は彼女に必要欠くべからざる存在だと思い込んだりする。
✻
女に対する場合、男に万事責任がある。雨が降ることも、風が吹くことも、彼女達の鼻の先に出来た小さな腫物(おでき)のことも、地震のことも、蝿が飛んでしまったことも、一切は男の責任だ。
✻
女達が、「本当にあたしを愛していて下さるのだったら。」と云う時は、彼女達はすでに僕等が愛していると確信を持った時だ。女達が、「あなたはあたしなんか愛していらっしゃらないわ。」と云ったりする時は、自分が愛されていることをいよいよ確かに知った時だ。
アンリ・ド・レニエ(1864-1936)
フランスの詩人・小説家。極めて芸術的な高雅な作風と、完全な語法、美しい文章とを以て知られています。
「饑渇負(ケカチマケ)」は京都の医師、橘南谿が弟子の丹生とともに天明六年の春に東北地方を旅したときの記録です。天明三、四年には大飢饉が発生し、その惨状は京都にも聞えていましたが、彼が実際に現地で目にした光景ははるかに悲惨を極めたものでした。
生き残った人の話を聞き書きした、こんなエピソードがあります。
「卯年、饑饉に及び五穀既に尽て、千金にても壱合の米を得る事あたわず、草木の根葉、其外、藁糠、或は犬猫牛馬鼠鼬に至るまで力の及ぶ程は取尽し食ひ尽して、後には道路に行倒れみちみちたる死人の肉を切とり食ふ事に成けるに、是も日久敷饑々て自然に死したる人の肉は既に腐りたる同然にて、其味ひ甚悪敷、活たる人を打殺し食ふは味も美なりければ、弱りたる人は殺し食ふ者多かりし也、此近隣にも家内追々饑死して、親壱人むす子壱人のみになれる時、其父一計策を案じ出し、其隣家に行ていふやう、『扨も御たがひに空腹なる事なり。我家にも既に家内皆々死うせしに、御覧のごとく今は男子壱人のみ残れり。是も殊の外に饑つかれたれば二三日の間には死すべし。とても死ゆく者いたずらに亡んよりは息ある間に打殺して食まんと思へども、さすがに肉親の恩愛、手づから打殺すにしのびず。此ゆへに其許を頼み申なり。我子を打殺して給はらば其御礼には肉半分を贈り申べし』と誠しやかに頼むにぞ、隣家の男大に悦び、『半分の肉をだに給はらばいとやすき事なり』とて、やがて有合けるナタ携へ行て打けるに、さなきだに死せんとせしむす子、只一打にいき絶ぬ。彼頼に行し親、傍に見居て、すかさず隣の男をマサカリにてしたゝかに打。隣家の男も饑つかれたる所なれば、何かは以てたまるべき、其まゝに息絶たり。扨、計策を以て両人の肉を得たれば、早速に弐人ともに料理して塩漬にし置て一月斗を凌げり。近所へは隣家の者饑たる余り此方の子を打殺し食はんとせしゆへに仇を報ぜりと吹聴し、公然として弐人の肉を甘ぜり。近所の者其姦計をにくめども、皆々饑つかれて相たがひに親子兄弟といへども打殺し食ふ時節なれば、誰咎る者もなかりしが、彼男もつゐには饑死し終れり」。
省略して言えばつぎのようなことです。
飢饉により食べられるものはすべて食べつくし、ついには死んだ人の肉をたべるようになった。しかし死人の肉はすぐ腐り味も悪いので、弱った人を殺して食べる人も多くあった。ある父親は、息子がもう長くはなさそうだったので一計を案じた。男は隣の家の男に相談を持ちかけ「息子はもう死にかけている。ここで一思いに殺して食べようと思うが自分の手で我が子を殺すことはさすがにできない。どうだろう、肉の半分をあんたにあげるので、あんたが殺してくれないだろうか。」隣の男は喜んで引受け、さっそくナタを持って男の家に行くと息子を一撃した。その様子を見ていた男は隣の男をマサカリで襲い殺害した。男は二人分の肉を塩漬けにしてそのご一ヶ月ほど生き延びた。男は隣の男が息子を殺したので仕返しをしたとふれまわった。近所の者は男の悪だくみを憎んだが、自分たちも生きるのに精一杯で咎める人はいなかった。男はその後餓死した。
誘惑
ウインクを送ったら、女が親切にもまぶたの下になにかできているのではと聞きに来てくれる。そんなとき、男は自分がもう若くはないことに気づく。
✻
愛情
二年前から熱愛していた男にこころならずも身を任せるよりも、二度しか会っていない男と
教会で三言ばかりラテン語をしゃべっただけでベッドに入る方がずっと猥褻である。
✻
病気
元気な人々は、それと知らない病人である。
✻
医学
医学はこの一世紀、絶え間なく進歩してきた。何千という新しい病気を発明することによって。
✻
風邪
風邪は治療すれば七日間続くが、もし何もしなければ一週間続く。
✻
ヒッチハイクをする女
ヒッチハイクをする女とはたいていの場合、美人で短いスカートをはき、あなたが妻と一緒に
車に乗っているとき道路に現われる若い女性である。
✻
会話
自分の妻に向って夫が言った。「ぼくたち二人のうちどちらかが死んだら、ぼくは田舎へ行って暮らすつもりだ。」
※唇の端が少し上がるぐらいの笑顔を期待して。
※生の葱を囓ったような苦い味がする作品でした。(個人的な感想です)
神童
それは多くの場合非常に想像力の豊かな親をもった子供のことである。
大衆
大衆は真実も単純さも好まない。彼らが好むのは作り話といかさま師だ。
怠惰
怠惰とは、何もしないでいる時間をもっとふやすために午前六時に起きることである。
寛大さ
寛大さは無関心の最悪の形態である。
幸福
幸福であるだけでは十分でない。他人が不幸でなければならない。
老い
老いることは、いまだに長生きする唯一の方法である。
※たまには夜空をながめて見よう。
アイスランド語の「羊」はデンマーク語の「子」と似ている。
デンマーク妃アレクサンドリアがアイスランドの植民地のエピスコポス(僧官)を訪うたとき可笑しいことがあった。
妃「子供は何人おもちです。」
僧「二百おります。」
妃「お世話が大変でしょう。」
僧「なに、草原に放して置いて片端から食べます。」
「椋鳥通信」より
※お後がよろしいようで。
※それにしても気が遠くなるような仕事ですね。
昔の本にでてくる女性はたいてい着物を着ています。
たとえばこんな感じです。(出典は忘れましたが、たぶん泉鏡花だと思います)
黒塗の艶(つや)やかな、吾妻下駄(あずまげた)を軽(かる)く留めて、すらりと撫肩(なでがた)に、葉に綿入れた一枚小袖、帯に背負揚(しょいあげ)の紅(くれない)は繻珍(しゅちん)を彩る花ならん、しゃんと心なしのお太鼓結び。雪の襟脚(えりあし)、銀の平打(ひらうち)の簪(かんざし)に透彫(すかしぼり)の紋所、後毛(おくれげ)もない結立ての島田髷(しまだまげ)、背高く見ゆる衣紋(えもん)つき、備わった品の可(よ)さ。(後略)
など、たぶん美しい女性であることは想像できますが、着物の知識がないわたしは、その容姿を具体的にイメージできません。残念です。
同じ鏡花の作品に「当世女装一班(とうせじょそういっぱん)」というのがあります。
女性が身につける衣装をひとつずつ解説したものです。
モデルは西鶴の「一代女」にでてくる理想の美人です。
「年は十五より十八まで、當世顏は少し丸く、色は薄花桜(うすはなざくら)にして、面道具(おもてどうぐ)の四つ、不足なく揃ひて、目は細きを好まず、眉厚く、鼻の間狭(せは)しからず次第高(しだいだか)に、口小さく、歯並(はならび)あらあらとして皓(しろ)く、耳長みあつて緣淺く、身を離れて根まで見え透き、額はわざとならず自然の生えどまり、首筋立ち伸びて、後れ毛なしの後髪(うしろがみ)、手の指はたよわく長みあつて爪薄く、足は八文三分に定(さだ)め、親指反(そ)つて裏透きて、胴間(どうのあいだ)常の人より長く、腰しまりて肉置(ししおき)逞ましからず、尻付豊やかに、物腰、衣裳つきよく、姿に位(くらい)備(そな)はり、心立(こころだて)おとなしく、女に定まりし藝優れて萬に昧(くら)からず、身に黒子(ほくろ)一つも無きを望み……」
この女性が入浴後身につける衣服を順番に解説しています。興味のある方は探してお読み下さい。
※八文三分はいまの20cm、かなり小さいですね。
花押はいわゆるカキハンである。この書き判はその穴の数によってその人々の性に五行の木火土金水の相生相克比和を考えて文字を決める。この点と画は梵字悉曇の崩しだと云う説もあるから吉凶を生じる理のないことでもない。弘法大師は三界のもの一切みな文字であるといったのはこの事であろう。(解説本より)
※単なるサインとは違う意味があるようです。