壽算
人壽不過百歳、数之終也
人の寿命は百歳に過ぎず 数のおわりなり
故過百二十不死、謂之失帰之妖
ゆえに百二十歳を過ぎても死なないとき これを失帰の妖という
と云っているが、昔にも百五六十歳、二百歳に至るものが居たという記録がある。『愚管鈔』の皇帝年代記、仁徳天皇のくだりに「大臣の竹内宿彌は六代御後見(おんうしろみ)にて二百八十余年を経たり」とある。(中略)
最近では志賀随應ほどの長寿はいないようだが、どうもはっきりしない。
一説に随應は、天正四(1576年)丙子の年、豊後の国に生まれる。志賀氏、名は義則、藤恕軒(とうじょけん)と号す。江戸に来て、新橋のほとりに住み、また赤坂に居たこともある。医師を業とし、そのかたわら神書を見ることを好み、閑な時は、釣を楽しむ。竹田候より月俸を受けるのを辞して江戸を去り、上野の国(群馬県)に赴いた。時に一百三十歳、その終焉の年は不明である。
昔たまたま其蜩菴(きちょうあん)の『翁草』を見ていると、生島幽軒老人の七十の算賀に来た七人の叟(おきな)の中に志賀随應もいた、と書いてある。
また随應の墨跡は、好事家に賞翫(しょうがん)されるため偽筆も多く、その手蹟のよいものと、詩句に趣あるものはほぼ贋作である。私が見たものの中で梅龍園主人の所蔵「長生」は間違いなく真跡である。影写して下に掲げる。(下図)
百有余歳と記した、その心は不明だが、年を隠すのは老人の情でもあり、ここに百何十何歳とは書かないものであろうと考える。
この老人の墓は江戸愛宕下(あたごした)、天徳寺の不断院にあり、墓誌には云々と、かねて聞いていたのを頼りに、ある日興継(おきつぐ)を伴い不断院におもむき、その墓所を半日あまり探した。しかし見つからず、困り果て、お布施を包み寺僧に頼んで過去帳を見せてもらったら、享保十五(1730年)庚戌の年、と題した戒名の中に、
真月院諦念随翁居士 志賀随翁
六月十六日 施主 上野恕信
とあった。
私が、この墓は今もあるかと問うと、寺僧も知らず、今はその施主も絶えているので、総墓(共同墓)の中にあるかも知れない、と云う。さっそく寺門を出て総墓所によじ登り、興継と共に、聞いた場所はもとより、周辺を見て廻ったが、ここでも見つからず、興継を寺に遣って、寺僧に案内を乞うた。道人が来て、わが寺の諸檀の墓所はここですと指したところを、ひとつひとつくまなく調べたが、そこにも墓はなかった。思うに施主がなくなり、墓石も共に壊れたのだろう、とやむなくあきらめた。卯月の長い一日を、はかなくここで過ごしてしまったことが少し悔やまれる。
この寺の過去帳に、その戒名があるのなら、最近まで彼の墓はあったのだろう。墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左の方に施主上野恕信と彫られていると聞いていたし、干支がないだけで年月も寺の過去帳と同じである。念のため寺僧に、施主上野氏の事、また過去帳に戒名俗名ともに、「随應」でなく「随翁」と書かれた理由を尋ねたが、はっきりとした答えは得られなかった。寺僧が云うには、寺により在世の名号を戒名に用いる事を許さないこともあるという。麻布二本榎、常行寺にある俳諧師其角の墓誌に「喜覚」と記録するように、随應の「應」を、「翁」の字にかえたのかもしれない。
一般に言われるように、随應が上野の国に歿したならば、この墓は、その年忌の折などに、江戸にいる親族、或いは由縁のものが建てたと考えられる。しかし、寺の過去帳から推しはかると、享保十五(1730年)六月十六日は、その忌日であり、老人の生れた天正四(1576年)丙子の年より、亨保十五(1730年)庚辰の年まで数えれば一百五十五年となり、これより、百五十五歳で亡くなったといっても、よりどころがある。思うに、墓石の施主、上野氏が何処の人であるかは知らないが、老後の扶助を受けていた随應が、上野家で亡くなったことを誤って、上野の国に歿すというふうに伝えられたのかもしれない。これはあくまで私の推量の説であり、ここに疑問を述べて、後考を俟つ。
『玄同放言』より意訳
※失帰の妖というのか。
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