2019年3月19日火曜日

次の本が出来るまで その125

相對死(あいたいじに)

※原文に適宜送り仮名を入れました。

元禄八(1695年)亥十二月七日、摂州西成郡下難波領(今の大阪難波千日前あたり)墓所南側石垣の根畑にて、年頃三十四、五の男と年二十四、五の女、咽を切り二人とも相果て居り候。

一、男の疵は咽二寸ほど、腹臍の上一寸ほど、突き疵に相見え申し候
一、女の咽四寸ほど、突き疵えぐり候様に相見え申し候

男の衣類
一、郡内縞両面綿入れ 一ツ
一、つむぎ茶帯    一すじ
一、羽二重下帯    一すじ
一、皮足袋      一足
一、珠数       一連 (手に掛け罷在候)
一、脇差       一腰 (拵え焼付金具長二尺一寸 糸柄)
一、小刀 (但し脇差しの鞘に御座候) 銅柄

女の衣類
一、日野すす竹小紋綿入れ 一ツ(但しひの茶裏)
一、郡内縞綿入      一ツ(但し同しま紫色裏)
一、京ろく帯       一すじ
一、緋ゆく        一すじ
一、もめん足袋      一足
一、縮緬ふくさ      一ツ(但し紅裏)

  右の通り男女着し居り申し候

一、封じ状(遺書) 一通
   三勝母殿
   みのや半左衛門殿

一、木綿茶色布子(但しこれは二人の者の下に敷居り申し候)


  右の通り吟味仕り候処相違い無く御座候 以上


元禄八年亥十二月七日


遺書の文
為参候。御袋様にはいつぞやくれぐれ申し置き候事も、みないつはりと成り、今更に恥ずかしく存じ候得ども、しかし果古(過去)のこうなりとおぼしめし、御あきらめ頼み存じ候。此の度三勝わたくし斯く相果て候事、嘸々(さぞさぞ)にくしと思し召候はんなれども、たがいに捨てがたき一命をかけ、斯く成り行き候事くどく具(ここ)にかかずとも、恋の切なる事、推いりやう可被下候。各様にも身の上の大事なる娘、我身もひとりの母と申、殊にはしんしよの中もわきまえず、人口にかかる死をとげ申し候。めいめい浮気なりとは思し召被下まじく候。兎にも角にも筆にはいわせがたく候まま、なからん跡不便(不憫)と思し召、よろ敷くたのみ存じ候。次第にあとには志れ不申し候間、筆をとめ申し候、以上。

 十二月
   三勝どの
    御袋殿                半  七
    半左衛門殿



※この事件はのちに「三勝半七」という名で浄瑠璃や歌舞伎などに脚色され人気を博しました。
 古柳句に「心中はほめてやるのが功徳なり」とその行動を肯定するような風潮もあったようです。

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