2022年1月10日月曜日

次の本が出来るまで その225

 浪人の話


 天明の春ごろ、ひとり流浪の士が、六、七歳の男の手をひき両国橋にやって来た。

 見るからに粗末な衣服を着ているが、腰には一刀を帯している。男の子は破れた単衣(ひとえ)を着て、春先の寒さに身体を震わせていた。

 二三日食べていないと見え、子は「とと様、ままが食べたい」と訴える様子が、見ていても哀れだった。親は涙ながらに「今に何なりともたべさせん」と、だましつすかしつ来たところ、橋のこなたの店先に、ふかした琉球芋がうず高く積まれていた。それを見て子は「あの芋が食べたい」と泣きだした。

 この憐れな様子を橋ぎわで草履を直す非人が見兼ねて、声をかけた。

「誠に失礼ではございますが、私にも子供がおりますので、そのお子さまのひもじい思いはよくわかります。なにとぞそのお芋を差上げたく存じます。よろしければ食べさせてあげて下さいませ」と、小銭をさし出した。浪人は涙ながらに「さてさて情深きおこころざしかたじけなく存じます。お礼の申しようもございません。そのおこころざしありがたく頂戴いたします」と、すぐさま子供に腹いっぱい芋を食べさせ、その様子を親は涙ながらに眺めると、非人の前にやってきて「ごらんの通り十分に食べさせました。このお礼は死んでも忘れはいたしませぬ」と、涙とともに厚く礼を述べ、もと来た橋の方へ歩き出した。

 二人がちょうど橋の半ばに来た時、浪人は子供を抱えあげるといきなり川へ投げ入れた。人々が驚いている間もなく、自らも川に身を投げた。二人とも溺れ死んだという。不憫というも余りある話である。

                               『宮川舎漫筆』より


絵師:広重


※文章は現代文にしています。

0 件のコメント:

コメントを投稿