流星の道 与謝野晶子
タイトルが素敵なので……。五首掲載します。
新聞の投稿欄にあった文章を紹介します。投稿主は磯田七虹さん(12歳・小学生)です。
学校からの帰り道、私が一人で歩いていると、前にとても重そうにスーパーの買い物袋を持って歩いているおばあさんがいました。
「こんにちは」とあいさつをして通りすぎましたが、気になってふりむくと、休けいしながら歩いていました。思わず戻って「持ちましょうか」と声をかけると「ありがとね」と言われたので、私が買い物袋を持って2人並んで歩きました。
私は、おばあさんに笑顔になってほしいと思って話しかけました。暑くなったこと、学校でタブレットが使えるようになったこと。おばあさんは、うれしそうに聞いてくれました。
分かれ道まで来たので、買い物袋をおばあさんに渡して「さようなら」と言いました。するとおばあさんは「本当にありがとね」と言ってくれました。私は晴れやかな気持ちになり、勇気を出して声をかけてよかったと思いました。おばあさんは笑顔になり、それ以上に私も笑顔になりました。
毎日新聞2021年7月21日(水)朝刊より
※七虹さん、ありがとう。いい文章に出会うと心が洗われます。
世の中には他人に拾われはしまいかという虞(おそ)れがなければ、捨ててしまいたい
ようなものが無数にある。
✣
人間は幸福なときはつねに善良なんだよ、だが善良なときかならずしも幸福とはかぎらない。
✣
女ってものはちょうど『人類』が神々を扱うようにわれわれを扱うものだ。
女は男を崇拝したあげく、あたしのためになにかしてくれといっていつも男を悩ます。
✣
真に魅力のある人間というものは二種類しかない──絶対になにもかも知りつくしている
人間と、絶対になにも知らない人間だ。
✣
女というものは自分の亭主のことを見破ると恐ろしくだらしなくなるか、さもなければ
ほかの女の亭主に買わせたとてもしゃれた帽子をかぶるかのどちらかだ。
✣
女は自分を崇拝してくれる男に逃げられるとだれかよその女の崇拝者を横取りする。
医学[médecine]
健康なときは愚弄(ぐろう)すべし。
怒り[colère]
血行をよくする。したがって、ときどき怒りを覚えることは体によい。
いとこ[cousin]
妻の「遠縁のいとこ」だという男には警戒するよう、夫には忠告すべし。
顔[visage]
「魂を映しだす鏡」。だとすると、ずいぶん醜い魂のひとたちがいるものだ。
老人[vieillard]
洪水や雷雨などが発生すると、土地の老人連中は、こんなにひどいのは見たことがないと
かならず言う。
小間使い[femme de chambre]
みんな女主人を裏切る。
彼女たちの秘密を知っている。
しばしば彼女たちより美人である。
かならず一家の息子によって誘惑される。
キス(する)[baiser]
「接吻する」と言うほうがより上品。
やさしい盗み。
キスを「してもいい」のは、
若い女性の額、
母親の頬、
美人の手、
子供の首筋、
恋人の唇。
※出典:「紋切型辞典」(岩波文庫)
この作品は、彼がパラオの南洋庁に勤務していた頃の見聞を題材にした『環礁─ミクロネシア巡島記抄─』の中の一篇です。
赴任したパラオ諸島に、子供が生まれない離島があります。原因は不明です。島には二十歳以下の人間は、五歳の女の子が一人いるだけで、近いうちに島から人間が居なくなるのは間違いありません。作者は島で満天の星を見ながら、地球上から人類の絶えてしまった後の世界を想像します。「誰も見る者も無い、暗い天体の整然たる運転」の世界を……。いい作品です。
これはSODOMYの発達を書こうと思うものである。自分自身の事実に多少の粉飾を加えるのが前のVITA SEXUALISと違っている点である。HEROの名は「清」とした。別に意味のある事でもない。
清が十一歳の時であった。
清の友達に木村関雄と云う少年があった。毛の薄い雀斑のある瘦せぎすなたちで、笑うと口もとが左へまがる癖があったが清とは誰よりも仲よくつきあっていたのである。
時は春の中ばであった。学校の庭には海棠や木蓮が咲くし狭い池の水もどんよりと柔かな藍色に濁って、何となく暖みのこもった感じをあたえている。その春の日の午後に、清と木村とは掃除番で他の生徒が一時間体操をしている間だけ教室にのこって、はたきをかけたり塵を掃いたりする役になっていた。
用がすむと二人は、向きあった机に腰をかけて、一緒に教科書を見はじめたが、木村ははじめから何となくそわそわして、落ちつかないようであった。何かと云うと清の手をとったり首をなでたりする。清は格別気にもとめなかったが、唯何となくそれが六月蝿かったので、その都度に顔をしかめてとられた手をはなした。勿論教室の中には誰もいない。
隣の教室で読本をよむ声がするより外は、何もきこえない。白い壁にさげられた時計の針はまだ十分すぎたばかりである。窓からは青くはれた空が見えていた。
木村は幾度も居ずまいを直したり、身体をゆすったりした。そして、話のついでに、清の傍へよる。そして、仕舞には、清の背から手をまわして、丁度両手で抱いたようになる。
と今度は、顔を次第に近づけ始めた。時々頬と頬とがふれる。木村は益々力をいれて抱くようにする。
時々話がきれると、清はそれをしおに、木村の手をはなそうとしたけれども、中々はなさない。そうして、しばらくすると、
「君、僕は君にLOVEしちゃった。君はLOVEって事をしってるかい、えっ」と云った。
清は黙っていた。知っているような、知っていないような事である。
その中に、木村は一そう力を入れて、清を自分の胸の方へひきよせた。ところが清がそれを抗がおうとして、左の手を木村の膝へかけると、手がすべって木村の帯の下へさわった。そしてそこに、袴の上から、固いもののあるのを感じた。そうすると、木村は急に早口に「しようよ、ねっ。いいだろう、ねっ。いや、えっ」ときいた。清は何だかわからないので「何を」とききかえした。前に書き落したが、清は木村より二つ年下である。
木村は黙って、清の袴の紐をといた。その時清は、何かがかすかにわかったような気がした。けれども、まだ淡い恐怖に似た感じがするだけで、慥には何ともわからなかった。木村は又、自分の袴もとくと、そこの土間に清を押し仆した。「およしよ、およしってば」「いいじゃないか、ねっ、いや? いいだろう、ねっ」木村は左の手で、清の肩を仰えて起きないようにした。そして右の手で、自分の前をひろげると、又清の前もひろげた。二人ともSARMATAは、はいていなかった。
「およしよ、関さん。およしってば、よう」
清は多少の羞恥を感じたので、こう云った。木村は小さな声で「いいじゃないか、いいじゃないか」と何度も繰返した。
そうして自分の□□□□□した□□□□□を、清のそれに力づよく押しつけた。清のそれは□□□□□していなかった。
清は仰むいたまま、自分の□□□□□に、熱い固い木村のそれを、幾度となく感じたのである。
その中に木村は、黙って前をあわせて、袴の紐をしめた。清も同じようにした。
木村は「誰にも云うのはよし給えよ」と云った。清は好意を以てその注告を守ったほど、まだ何もしらなかったのである。
※冒頭からの一部を掲載しました。伏字のところはローマ字表記です。問題があれば削除します。
「VITA SEXUALIS」は『芥川龍之介未定稿集』(荒巻義敏編、岩波書店)に掲載されています。
『暦物語』より「思いがけぬ再会」「恐ろしい事件が平凡な肉屋の犬によってあばかれた話」の二作を選びました。『暦物語』とはカレンダーに添える短い挿話や教訓話のことで、編集を担当したヘーベルは多くの物語を作りました。二百年も前のことです。彼の作った話は機知とユーモアに富み、現在も愛読されているということです。
Arthur Halliwell Donovan
もしプラトニツク・ラヴと云ふものがあつたら、自分は必人間より馬に惚れたのに相違ない。
*
幸福とは幸福を問題にしない時を云ふ。
*
藝術の境に未成品はない。あればそれは下等な完成品である。
*
不幸にして自分は、眞面目を標榜する程不眞面目にはなり得ない。
*
如何にして年をとらうか──これが人間に與へられた最大の問題である。
*
運命は自由意志の中にある。
*
彈丸に中つて死ぬのと、餓死するのと、どちらが好いか。それはまだよく考へた上でないと、きめられない。
*
戰ひたくないと思つたら、やはり戰ふ外はない。たとひそれが敵國に對してでなくとも。
*
最大の奇蹟は言語である。
羽賀宅阿譯
※ご存知の方も多いだろうが、これは芥川作のパロディでタイトルの「Lies in Scarlet」は「真っ赤な嘘」という意味らしい。作者のAuthur 何とかももちろん空想の人物で、訳者の羽賀宅阿は逆から読むとあくたがわになる。
五月三日、天気は快晴、近所の金戒光明寺の墓地へ行きました。人もほとんどいません。気の向くまま、墓石に刻まれた名前や没年を眺めて歩きまわりました。隣の真如堂の墓地へも行きました。知らない人から見れば怪しい老人です。ここの墓地はとにかく広く、静かで心休まるところです。
下手な写真を掲載しておきます。
『ヘンリ・ライクロフトの私記』より
私は散歩のおりにはいつも道を折れていかにも田舎じみた教会墓地の中を通ることにしている。都会の墓地は不快なものだが、それとは逆にこの鄙びた墓所は魅惑的なものだ。墓石に刻まれた名前を読み、ここに静かに眠っている人々にとって、人生の辛酸も苦悩もすぎさったのだと考えると、深い慰めを感じる。私には少しの悲しみの情もわいてはこない。「某ココニ眠ル」という墓碑銘にまさる頌詞(しょうし)がほかにあるであろうか。死の威厳にまさる威厳はない。(中略)
この樹蔭の静寂の中で、死者たちは、まだこの世に残るべく運命づけられている者に向かって次のような励ましの言葉をささやいているようにみえる。「我らのあるごとく、汝もかくなるべし。されば見よ、我らの静寂を」と。
※墓マイラーというらしい。
ジェフリー・アーチャー『十四の嘘と真実』の最初のページに載っていた短かい話。
死神は語る
バグダッドに住む一人の商人が、召使いを市場へ買物に行かせた。しばらくすると召使いが真っ青な顔をして震えながら戻り、主人に報告した。「だんな様、今しがた市場の人混みのなかである女と体がぶつかり、振りかえってみたところその女は死神でした。女はわたしを見て脅かすような身振りをしたのです。どうか馬を一頭お貸しください。この町から逃げだして死の運命からのがれたいのです。サマラの町までいけば死神に見つからずにすむでしょう」
商人は馬を貸してやり、召使いは馬の背に跨(またが)って脇腹(わきばら)に拍車をくれ、全速力で町から逃げだした。
それから間もなく、商人が市場へ行くと死神が人混みのなかに立っていたので、彼は近づいて行って話しかけた。「今朝わが家の召使いと会ったとき、脅かすような身ぶりをしたのはなぜですか?」
「あれは脅かすような身ぶりではありません」と、死神は答えた。「わたしはただ驚いただけなんです。じつは、今夜サマラで彼と会うことになっているので、バグダッドにいるのを見てびっくりしたんですよ」
世知辛い世の中です。しばし欲得に関係のない話でご機嫌を伺います。
盂蘭盆(北条民雄)門づけ(小泉八雲)怪談 女の輪(泉鏡花)一寸怪し(泉鏡花)沼地(芥川龍之介)有間(高浜虚子)餓鬼(菊池寛)黄昏(島崎藤村)その女と金(宇野千代)原爆被災時のノート(原民喜)大地炎上(マルセル・シュウオッブ)化粧(神西清)
ラジオなどで聴くえらい官吏などの講演の口調は一般に妙に親しみのない鹿爪らしい切口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛込んで来るようなものが少ない。
或会議の席上で或長官が或報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを思い出した。
長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句は分かってもその内容は実はあんまり身に沁みて居ないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生れるのではないかという気がした。
これに反して、文士でも芸術家乃至芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底の方に何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
空腹は中々隠せないものらしい。
(寺田寅彦全集 第六巻)より
※すぐにあの顔が浮かんできた。
『有難う』は掌編小説をまとめた作品集『掌の小説』の中の一篇です。1936年には映画化もされました。三島由紀夫はこの作品を「掌の小説」の中でも優れたもののひとつだとしています。新感覚派といわれた川端康成の簡潔な表現と描写が光る作品です。
※布の表紙の硬さが気に入らず、はじめから作りなおしました。あとの方は和紙の上製本です。
アンリ・ド・レニエが女性について書いた文章を紹介します。その恋愛観、女性観は、フランスのブルジョワ階級の思想傾向を反映していると堀口大學先生は書いておられますから、たぶんそうなんでしょう。
恋愛は一個独立した感情である。それは、友情とも、尊敬とも、やさしさとも、慈愛とも、デリカシーとも関係がない。恋愛は、それ自ら以外のものには関心も持たなければ、また心づきもない。恋愛には、恋愛独特の理屈があり、空想があり、先入主があり、策略がある。恋愛にはまごころの言葉も、精神の言葉も通じない。それはまごころでもなければ、精神でもない。それは恋愛だ。
✻
男は己惚れの強い馬鹿者だ。女がやっと我慢して交際(つきあ)っていてやると、早速もう、自分は彼女に必要欠くべからざる存在だと思い込んだりする。
✻
女に対する場合、男に万事責任がある。雨が降ることも、風が吹くことも、彼女達の鼻の先に出来た小さな腫物(おでき)のことも、地震のことも、蝿が飛んでしまったことも、一切は男の責任だ。
✻
女達が、「本当にあたしを愛していて下さるのだったら。」と云う時は、彼女達はすでに僕等が愛していると確信を持った時だ。女達が、「あなたはあたしなんか愛していらっしゃらないわ。」と云ったりする時は、自分が愛されていることをいよいよ確かに知った時だ。
アンリ・ド・レニエ(1864-1936)
フランスの詩人・小説家。極めて芸術的な高雅な作風と、完全な語法、美しい文章とを以て知られています。
「饑渇負(ケカチマケ)」は京都の医師、橘南谿が弟子の丹生とともに天明六年の春に東北地方を旅したときの記録です。天明三、四年には大飢饉が発生し、その惨状は京都にも聞えていましたが、彼が実際に現地で目にした光景ははるかに悲惨を極めたものでした。
生き残った人の話を聞き書きした、こんなエピソードがあります。
「卯年、饑饉に及び五穀既に尽て、千金にても壱合の米を得る事あたわず、草木の根葉、其外、藁糠、或は犬猫牛馬鼠鼬に至るまで力の及ぶ程は取尽し食ひ尽して、後には道路に行倒れみちみちたる死人の肉を切とり食ふ事に成けるに、是も日久敷饑々て自然に死したる人の肉は既に腐りたる同然にて、其味ひ甚悪敷、活たる人を打殺し食ふは味も美なりければ、弱りたる人は殺し食ふ者多かりし也、此近隣にも家内追々饑死して、親壱人むす子壱人のみになれる時、其父一計策を案じ出し、其隣家に行ていふやう、『扨も御たがひに空腹なる事なり。我家にも既に家内皆々死うせしに、御覧のごとく今は男子壱人のみ残れり。是も殊の外に饑つかれたれば二三日の間には死すべし。とても死ゆく者いたずらに亡んよりは息ある間に打殺して食まんと思へども、さすがに肉親の恩愛、手づから打殺すにしのびず。此ゆへに其許を頼み申なり。我子を打殺して給はらば其御礼には肉半分を贈り申べし』と誠しやかに頼むにぞ、隣家の男大に悦び、『半分の肉をだに給はらばいとやすき事なり』とて、やがて有合けるナタ携へ行て打けるに、さなきだに死せんとせしむす子、只一打にいき絶ぬ。彼頼に行し親、傍に見居て、すかさず隣の男をマサカリにてしたゝかに打。隣家の男も饑つかれたる所なれば、何かは以てたまるべき、其まゝに息絶たり。扨、計策を以て両人の肉を得たれば、早速に弐人ともに料理して塩漬にし置て一月斗を凌げり。近所へは隣家の者饑たる余り此方の子を打殺し食はんとせしゆへに仇を報ぜりと吹聴し、公然として弐人の肉を甘ぜり。近所の者其姦計をにくめども、皆々饑つかれて相たがひに親子兄弟といへども打殺し食ふ時節なれば、誰咎る者もなかりしが、彼男もつゐには饑死し終れり」。
省略して言えばつぎのようなことです。
飢饉により食べられるものはすべて食べつくし、ついには死んだ人の肉をたべるようになった。しかし死人の肉はすぐ腐り味も悪いので、弱った人を殺して食べる人も多くあった。ある父親は、息子がもう長くはなさそうだったので一計を案じた。男は隣の家の男に相談を持ちかけ「息子はもう死にかけている。ここで一思いに殺して食べようと思うが自分の手で我が子を殺すことはさすがにできない。どうだろう、肉の半分をあんたにあげるので、あんたが殺してくれないだろうか。」隣の男は喜んで引受け、さっそくナタを持って男の家に行くと息子を一撃した。その様子を見ていた男は隣の男をマサカリで襲い殺害した。男は二人分の肉を塩漬けにしてそのご一ヶ月ほど生き延びた。男は隣の男が息子を殺したので仕返しをしたとふれまわった。近所の者は男の悪だくみを憎んだが、自分たちも生きるのに精一杯で咎める人はいなかった。男はその後餓死した。